ベルリンの形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
テルトウ台地とバルニム台地の間にある沼地となっていた渓谷のうち、水が比較的少ない一帯では、シュプレー川に浅瀬が形成されていた。浅瀬の右岸ではアルト=ベルリン(ドイツ語版)(本ベルリン)が発展し、シュプレー川の中州にはケルン(ドイツ語版)が形成されていった。同時期にのちの大ベルリンを構成する地域の名称が文書に出てくるようになる。1197年にシュパンダウ、1209年にケーペニック(ドイツ語版)、1237年にケルン、1244年にベルリンという名称が現れてくるが、このうちシュパンダウとケーペニックはかつてスラヴ人地域であった。ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルの大聖堂博物館に所蔵されている古い文書には1237年10月28日の日付でケルンが、1244年1月26日の日付でベルリンが記載されている。シュパンダウは1232年に都市特権が付与されるが、これは同時にベルリンが都市特権を与えられたことを意味する。1307年にはベルリンとケルンが統合される。双子都市ベルリン=ケルンは、かつて共同辺境伯オットー3世(ドイツ語版)とヨハン1世(ドイツ語版)の統治下で港周辺に市場を開く権利を与えられたシュパンダウやケーペニックなどの都市に比べても、特に経済の面で発展していった。 近年の研究では、ベルリン・ケルンへの初期の入植は、おそらく12世紀末に始まったと考えられている。1997年から1999年の考古学調査では、ブライテ通り28番地(アルト=ケルン)で、1200年ごろに再利用された木材が発見され、年輪年代学を用いると1171年ごろかそれ以降のものであると判明した。2007年、ペトリ広場(ドイツ語版)にある地下貯蔵庫での発掘調査では、オークの木材が見つかった。年輪年代学による分析の結果によると、1212年ごろのものであると鑑定された。 1230年代以降に共同辺境伯の統治下で双子都市が重点的に開発を進められたことは、テルトウ台地やバルニム台地が居住地となっていくことと密接な関係がある。アスカニア家がこれらに進出していくようになるということは、ミッテンヴァルデ(ドイツ語版)やケーペニックといったテルトウ地方やヘーノウ(ドイツ語版)地方、特にヘラースドルフ(ドイツ語版)におけるヴェッティン家の支配に対する戦略的要素を有していたと考えられている。当時のアスカニア家とヴェッティン家の領域の境界線は、現在のベルリン市域をちょうど東西に分ける位置に引かれていた。なお両者の間にマクデブルク大司教領があったという説は、近年では否定的な見方が強い。ヴェッティン家との緊張関係は1239年から1245年にかけてのテルトウ戦争(ドイツ語版)でアスカニア家が勝利し、これによりテルトウと、リューダースドルフ(ドイツ語版)を除くバルニムがアスカニア家の支配下に置かれるようになり、現在のベルリン市域が形成された。
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