ベルリンの戦い―降伏
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「第1SS装甲師団」の記事における「ベルリンの戦い―降伏」の解説
LSSAHの一部部隊は、ベルリンにおける戦闘で最期を迎えた。1945年4月22日、ヒトラーはヴィルヘルム・モーンケSS少将を、総統官邸と総統地下壕を含む官庁街(ツィタデル地区)の防衛司令官に任命した。モーンケは総統地下壕に司令部を置いて、LSSAHの総統警護隊などを基幹とする9個大隊(兵員2,000人)からなるモーンケ戦闘団を編成した。押し寄せるソビエト軍に対して果敢に戦闘を続けたが、4月30日にヒトラーが自殺。モーンケは官庁街を防衛する指揮下の全部隊に対して、ヒトラーの死とベルリンからの脱出について連絡した。5月1日23時、モーンケが中心となって10組の脱出グループに別れて順次脱出を開始、モーンケは先発隊を率いた。いくつかの小集団のみが、エルベ川西岸のアメリカ軍占領地域へ到達したが、モーンケのグループを含む大半がソビエト軍の包囲を突破できず捕虜となり、一部は降伏を潔しとせず自殺した。5月2日、ベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングから即時降伏命令を受け、モーンケ戦闘団を含むベルリン市内の全部隊が降伏した。 上記のベルリンで降伏した部隊を除くLSSAH師団本隊は、ウィーン陥落の時点で兵員1,600人、戦車16輌にまで戦力が低下していた。1945年5月8日に、シュタイアー地区においてアメリカ軍に降伏した。
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