ヒトラーの国籍取得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 04:42 UTC 版)
「ディートリヒ・クラゲス」の記事における「ヒトラーの国籍取得」の解説
ヒトラーは1925年にオーストリアの市民権を放棄しており、それ以来無国籍者であった。ナチ党幹部らはあらゆる手段で、ヒトラーのドイツ市民権獲得に奔走していたが、こうした試みは、1932年にブラウンシュヴァイクにおいて成功した。ブラウンシュヴァイク州はワイマール共和国内で唯一、ナチ党が政府に参画した地域であり、ヒトラーの「帰化」を独自の方式で取得できるようになっていた。 「国家および市民法第14条」に従い、この国籍取得に責任を負ったのは、ブラウンシュヴァイク市ではなく、州であった。州の内務・国家教育大臣であったクラゲスは、ブラウンシュヴァイク州の政府代表として、ヒトラーの国籍取得のためナチ党指導部から直接任命をうけた。 ナチ党宣伝指導者のヨーゼフ・ゲッベルスは、1932年2月4日付の日記で以下のように述べている。 総統が、大統領選挙へ立候補するためには市民権を取得しなければならない。クラゲスはこの問題を解決する任務を負っている 当初、クラゲスはブラウンシュヴァイク工科大学の教授職をヒトラーに与えようとしていた。このゲッベルスによる発案は、州議会のSPDの議員団からの激しい抵抗を巻き起こし、最終的に失敗した。このヒトラーの国籍取得の試みは、政敵から嘲笑の的にされ、しばしばナチ党及びヒトラーへの風刺の対象となった。 DVPのハインリヒ・ヴェッセル(ドイツ語版)は、ヒトラーをブラウンシュヴァイク州の公使館に勤務させるように提案した。同日、ベルリンのホテルカイザーホーフに、この知らせが届き、ゲッベルスは「我々は月の彼方の住人だ」と日記に記している。 1932年2月25日、ヒトラーはブラウンシュヴァイク公使館への就任宣誓を行い、同時にブラウンシュヴァイクの市民権を受け取った。これにより、彼は国家と市民法に則りドイツ国籍の取得に成功することとなった。こうして、3月に行われる大統領選挙への立候補が可能となった。 ブラウンシュヴァイクの大使館員としてのヒトラーの勤務は殆ど形式的なものであり、1933年2月16日、既に現職の首相となっていたヒトラーは、短い電報でブラウンシュヴァイク州へ公務員資格の解任を要求し、簡潔に処理が行われた。
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