党勢の拡大
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「国民社会主義ドイツ労働者党」の記事における「党勢の拡大」の解説
1924年12月20日、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトとヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルトはヒトラーの恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた。 1925年2月27日に「ビュルガーブロイケラー」においてナチ党再結党大会を行った。大会は公開で行われ、党関係者の他、一般聴衆も加わって参加者はおよそ3000人に及んだという。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。 1925年3月29日の大統領選挙の第一次選挙にはルーデンドルフが出馬し、ナチ党も彼を支持したが、得票率1パーセントの泡沫候補で終わり、ルーデンドルフは政治生命を失った。 4月中旬、レームはヒトラーと会談し、再建される突撃隊をナチ党から自立した国防団体(国軍補助兵力)にすることを要求したが、ヒトラーはこれを拒否した。この決裂でレームは突撃隊司令官もフロントバン司令官も辞し、政界引退を表明した。その後軍事顧問として南アフリカへ渡っていった。 7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルクの導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。 1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日にバンベルクで招集されたバンベルク会議において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマールで党大会が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントなど各種団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツが党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない。 1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党、ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。 しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。 1932年4月には大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求した(のちに全権委任法として現実の物となる)。ヒトラーの要求はヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチ党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。 ナチス党の得票数の変化投票年月日得票数得票率当選数1928年5月20日 810,000 2.6% 12人 1930年9月14日 6,410,000 18.3% 107人 1932年7月31日 13,750,000 37.3% 230人 1932年11月6日 11,740,000 33.1% 196人 1933年3月5日 17,280,000 43.9% 288人 1933年11月12日 39,655,288 92.2% 661人 1936年3月29日 44,462,458 98.8% 741人 1938年4月10日 44,451,092 99.5% 813人 ドイツ国会選挙の当選者数(1920 - 1938) 国会の政党 1920年6月6日 1924年5月4日 1924年12月7日 1928年5月20日 1930年9月14日 1932年7月31日 1932年11月6日 1933年3月5日 1933年11月12日 1936年3月29日 1938年4月10日 共産党 (KPD) 4 62 45 54 77 89 100 81 (*2) 禁止(*4) - - ドイツ社会民主党 (SPD) 102 100 131 153 143 133 121 120 禁止(*4) - - カトリック中央党 (*1) 65 81 88 78 87 97 90 93 解散(*4) - - ドイツ国家人民党 (DNVP) 71 95 103 73 41 37 52 52(*3) 解散(*4) - - 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) - - - 12 107 230 196 288(*3) 661 741 813 その他の政党 98 92 73 121 122 22 35 23 - (*4) - - (*1) 保守的なカトリック政党であるバイエルン人民党 (BVP) を含む (*2) 共産党議員は全員が逮捕・逃亡などで登院することが出来ず、彼らの議席は無効化された。選挙後の3月31日に正式に禁止され、共産党の81議席は消滅することとされた。 (*3) ナチ党は288議席(得票率43.9%)で単独過半数に至らなかったが、国家人民党(52議席)との連立で計340議席となり半数を超えた。更に上記 (*2) の81議席を計算から除外することで単独過半数となった。 (*4) 共産党は3月31日、社会民主党は6月22日に禁止され、地下活動および亡命を余儀なくされた。国家人民党は6月27日、中央党は7月3日に「自己解散」している。7月14日の政党新設禁止法により、ナチ党以外の政党の存在は禁止された。 出典Political Parties in the Reichstag(英語) Das Deutsche Reich – Reichstagswahlen 1919–1933(ドイツ語) Wahlen in der Weimarer Republik(ドイツ語) The German Revolution (1918-1919)(ドイツ語)
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