パーペン内閣
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1932年6月1日、ヒンデンブルクはフランツ・フォン・パーペンを首相に指名した。中央党の元党員であったパーペンは、貴族ばかりを集めて組閣したため、SPD系の新聞Vorwärtsから「男爵内閣(Das Kabinett der Barone)」と書き立てられた。パーペン内閣を承認したのはDNVPだけだったので、ヒンデンブルクはパーペンの権力を裏付けるためにヴァイマル憲法第48条を持ち出さなければならなかった。パーペンを指名するとヒンデンブルクは直ちに国会を解散し、7月31日に選挙を実施することにした。解散中なら内閣は国会の反対を一切気にすることなく政策を実行できたので、準軍事組織の活動禁止を取り止め、さらに州選挙後に州議会が行き詰まっていたプロイセン自由州で、SPDを中心とする連立政権を軍を動員して転覆させた(プロイセン・クーデター(ドイツ語版))。 7月に行われた選挙は、得票率37.4%を獲得して議席を107から230に倍増させたナチ党の地滑り的大勝利に終わり、ついにナチ党が第一党に踊り出た。この結果を受けて、シュライヒャーはナチ党を懐柔すべくヒトラーに入閣を打診した。しかし、ヒトラーは自らが首相になるのでなければ受け入れられないとしてこれを撥ね付けた。パーペンは留任したが、9月12日に野党提出の緊急令に対する動議で敗北したため、国会は再び解散された。 11月の選挙ではナチ党は前回ほどの大勝利とまでは行かなかったが第一党の地位を維持し、SPDも議席を減らした一方で共産党が議席を伸ばして第三党となったことから、国会運営の行き詰まりにも実質的な変化はなかった。ヒトラーは再び国会第一党の党首として首相の座を求めたが、ヒンデンブルクはヒトラーが議会で過半数を押さえない限り承認することはないと述べたため両者は決裂した。ヒンデンブルクは、パーペン内閣がこれ以上の敗北とそれに続く選挙(その結果としてナチ党が過半数を押さえること)を避けるにはあまりにも支持されていないことに気が付いた。ここに至ってパーペンは、軍事クーデターを起こして選挙を無期限に延期し、大統領権限を拡大して野党を抑圧することを提案した。ヒンデンブルクは難色を示しつつ強く反対もしなかったが、シュライヒャーが頑として国軍の動員を拒否したこともあって、パーペンを解任することにした。
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パーペン内閣
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続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペンに首相就任を打診し、さらにナチ党以外の政党からの影響を受けないような閣僚リストも作成したうえでパーペン内閣が1932年6月1日に成立した。パーペン内閣には貴族出身者が多く『男爵内閣』と呼ばれた。シュライヒャーは国防相となった。パーペンは中央党の党員であったが、ブリューニングを裏切る形で後継首相となったことで中央党から離脱せざるを得なかった。このためパーペン内閣の与党は存在しなくなった。ヒトラーはパーペンに面会した際に「あなたの内閣は一時的な措置である」と述べた。ナチ党は人気のないパーペン内閣を支持することはなく反政府の立場を鮮明にした。 5月から6月にかけてナチ党はオルデンブルク州、メクレンブルク=シュヴェリーン州、ヘッセン州で44〜49%の得票率を記録した。突撃隊と親衛隊の禁令も解除された。
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