パーマストン外交を批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「パーマストン外交を批判」の解説
1855年2月8日、第一次パーマストン子爵内閣(英語版)が成立した。ピール派も同内閣に入閣し、グラッドストンは引き続き大蔵大臣を務めることになった。しかし組閣後まもなくパーマストン卿がローバックの調査委員会設置の動議に応じたため、これを不服としたグラッドストンは、ピール派の一部閣僚を連れて内閣を離れた。パーマストン内閣成立からわずか2 - 3週間後ぐらいのことであった。 クリミア戦争はロシアとナポレオン3世の継戦意欲が弱まったことで、1856年3月30日にパリ条約締結をもって終戦した。 しかしナポレオン3世と結託してのパーマストン子爵の強硬外交は続いた。1856年にはアロー号事件を契機としてフランスとともに清に対してアロー戦争を開始した。この戦争を批判するリチャード・コブデン議員提出の動議が保守党やピール派、急進派の賛成で可決された。グラッドストンも賛成票を投じた。これに対してパーマストン子爵は解散総選挙(英語版)に打って出た。総選挙の結果、党派に関係なくパーマストン子爵を支持する議員が大勝した。グラッドストンは再選したものの、コブデンら強硬な戦争反対論者はほとんど全員落選した。 また同時期にパーマストン子爵はナポレオン3世と共同でスエズ運河建設にあたったが、これに対してもグラッドストンはフランス以外の国からも支持を得て行わなければならないとして慎重姿勢を示した。 パーマストン子爵の強硬外交は功を奏し続けたため、野党も攻めあぐねていた。その状況が変化したのは、1858年1月に起こったイギリス亡命中のイタリア・ナショナリストフェリーチェ・オルシーニによるナポレオン3世暗殺未遂事件だった。この事件後フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要請でパーマストン卿は、殺人共謀を重罪化する法案を提出したが、この法案は「フランスへの媚び売り法案」として世論の批判に晒された。庶民院でもトマス・ミルナー・ギブソン(英語版)議員から法案の修正案が提出された。グラッドストンもパーマストン卿の法案について「抑圧的法律の外へ安全を求める人々に対する道徳的共犯となる」と論じ、ギブソンの修正案に賛成した。修正案は16票差で可決され、パーマストン子爵内閣は総辞職した。 [先頭へ戻る]
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