パーマストン子爵内閣成立への尽力
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)」の記事における「パーマストン子爵内閣成立への尽力」の解説
クリミア戦争が泥沼に陥り、国内でも選挙法改正延期に不満を抱いたジョン・ラッセル卿が造反して危機的状態に陥っていく中、アバディーン伯爵は1855年1月末に女王に辞表を提出した。女王は2月1日にランズダウン侯爵を召集し、誰を首相にするべきか諮問した。ランズダウン侯爵は「ラッセルを首相にすればピール派が協力しないし、パーマストンを首相にすればラッセルが協力しない」という見解を示したうえで、第4代クラレンドン伯爵を首相、ラッセルは爵位を与えて貴族院へ移して貴族院院内総務、パーマストンは庶民院院内総務にすることを提案したが、女王も王配アルバートも嫌がり、ランズダウン侯爵の首相就任を求めた。ランズダウンは高齢と痛風を理由にそれを拝辞しつつ、後任の首相を推挙できるよう調整を行う旨を約束した。 調整の結果ランズダウンは、ラッセルに自ら首相職を断念させてパーマストン内閣を成立させる必要性を感じた。女王にその旨を奏上して2月3日にもラッセルに組閣の大命を下させた。そしてラッセルがピール派とホイッグ党の大半から組閣への協力を拒否されて、大命を拝辞したところで、2月4日にパーマストンに大命を下させた。このランズダウンの気転のおかげでピール派もラッセルも協力を約束した第一次パーマストン子爵内閣を発足させることができた。 パーマストン子爵内閣発足を機にランズダウンは今度こそ政界引退を希望したが、パーマストンと女王から慰留されたため、貴族院院内総務のみを辞して、無任所大臣として内閣に留まることになった。貴族院における与野党調整役として彼は不可欠だった。この第一次パーマストン内閣が倒閣された1858年2月になってようやくランズダウン卿は希望通り、政界の第一線から退くことができた。
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