パーマストン派の形成とラッセルとの対立
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「パーマストン派の形成とラッセルとの対立」の解説
以降ホイッグ党は自由党結成までパーマストン派とラッセル派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した。 ラッセル内閣はクーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオン大統領(1852年12月には皇帝に即位してナポレオン3世となる)が、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するのではという不安に駆られており、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した。 パーマストン卿はラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。保守党庶民院院内総務ディズレーリがパーマストン卿に協力することを決定し、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決され、ラッセル内閣は総辞職することとなった。このパーマストン卿の修正動議は世に「しかえし (Tit for tat)」と呼ばれた。 この後、保守党党首ダービー伯爵が大命を受けて組閣した。保守党はパーマストン卿を保守党政権に引き込みたがっており、ディズレーリから保守党庶民院院内総務の地位を譲ると持ちかけられ、またダービー伯爵からも大蔵大臣として入閣してほしいと要請を受けた。しかしパーマストン卿はいずれも拒否している。女王はパーマストン卿をとことん嫌っていたため、これに安堵したという。しかし組閣後もディズレーリはパーマストン卿を誘い続け、パーマストン卿の方も入閣こそしなかったが保守党政権に好意的な態度をとっていた。 1852年12月、大蔵大臣ディズレーリの作成した予算案がピール派、急進派、ホイッグ党ラッセル派など野党勢力の反対多数で否決され、第一次ダービー伯爵内閣は総辞職することとなった。親保守党政権的な立場をとってきたパーマストン卿はこの予算案採決に欠席した。
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