パーペン内閣国防相
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「クルト・フォン・シュライヒャー」の記事における「パーペン内閣国防相」の解説
1932年5月26日にはシュライヒャーは次の首相としてフランツ・フォン・パーペンをベルリンに呼び寄せていた。5月30日にブリューニング内閣が瓦解すると、シュライヒャーは、ヒンデンブルクにパーペンを後継の首相に推薦した。シュライヒャーが当時ほとんど無名だったパーペンを首相に推薦したのは、パーペンが無経験で外見ばかり気にする性格だったため、操り人形にし易しと判断したからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという。6月1日にパーペン内閣が成立し、シュライヒャーは退役して名誉階級歩兵大将の階級を与えられるとともに国防相として入閣した。 パーペン内閣は貴族ばかりの内閣として国民の支持が皆無だった。ナチ党を除く全主要政党からパーペン内閣は攻撃に晒された。先のシュライヒャーとの約束によりナチ党のみがパーペン批判を控えていた。シュライヒャーは、早速ナチ党取り込み工作を開始し、6月3日にヒトラーと面会して協力を要請したが、拒絶された。 1932年7月31日に投票が行われた総選挙でナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た。シュライヒャーは8月5日にパーペンに独断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求した。シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに取り計らう様になったが、ヒンデンブルクもパーペンもその意思はなかった。ヒンデンブルクはヒトラーを毛嫌いしていたし、パーペンはいくつかの閣僚職を提供することでナチ党を取りこむことができると未だに考えていた。 社民党のオットー・ブラウンが首班を務めるプロイセン州政府を武力で解散させて政府支配下に置くことには成功したものの、パーペンの政治能力に疑問を持つようになる。11月6日に行われた総選挙では、ナチ党は共産党の起こしたストライキへの参加やブルジョア的なパーペン内閣への激しい攻撃などにより財界やナチ党員にかなり離反されていたため、選挙資金を確保できずに議席を大きく減らした。しかし第一党は確保した。またナチ党以上に厄介な共産党が躍進してしまった。パーペンは再度ヒトラーに副首相就任を打診したが、やはり拒絶された。 パーペンを見限ったシュライヒャーは、政党間交渉をしやすくするためとして後の交渉はヒンデンブルクに任せ、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた。11月18日から24日にかけてヒンデンブルクやマイスナーなど大統領府とヒトラーの交渉が行われたが、やはり平行線に終わった。 12月1日午後6時、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集した。パーペンは数か月前から立てていた憲法違反のクーデタ計画をヒンデンブルクに提案した。国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する計画であった。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張した。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは頑として国軍のクーデタへの参加を拒否した。 つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーに組閣命令が下った。
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