ブリューニング内閣
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パウル・フォン・ヒンデンブルクは貴族出身の軍人で議会制民主主義にはもとより懐疑的であり、大連立を国会ではなく大統領自身の意に適う保守的な政府に置き換えることを長らく追求していた。これは権威主義政権を志向するシュライヒャーなどの側近と、行き詰まる一方の国会運営の影響であった。ミュラー内閣が総辞職すると、ヒンデンブルクは中央党のハインリヒ・ブリューニングを首相に指名した。大統領府長官であったオットー・マイスナーによれば、ブリューニングは第一次世界大戦の従軍経験があり、ナショナリストとしてドイツ革命に反対の立場をたびたび口にしていたことから極右にも受け入れられやすいと言う点でうってつけの人材であった。その一方で、社会問題に対するブリューニングの姿勢は、ヒンデンブルクが敵視するSPDにとって都合のよいものであった。 ブリューニング内閣は、国会第一党であったSPDを除く右派から中道の各党から閣僚を受け入れて成立した。ブリューニングは国会に各種法案を上程したが、一方でヒンデンブルクはヴァイマル憲法第48条を盾にしてブリューニングを援護する姿勢を打ち出していた。 1930年4月3日にSPDが主導して内閣不信任決議の動議が提出されたが、ドイツ国家人民党(DNVP)が反対票を投じたことからブリューニング内閣はかろうじて命脈を繋いだ。ブリューニングは、1930年7月に世界恐慌の直撃を受けた財政の建て直しのため国会に人頭税の新設を含む財政改革案を提出したが、DNVPの切り崩しに失敗して却下されてしまう。これを受けてヒンデンブルクはヴァイマル憲法第48条を発動して通過させた。歴史家ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラーは、このときをもって議院内閣制から大統領制に移行したとみなしている。 大統領緊急令をもって通過させた財政改革案であったが、SPD・共産党・ナチ党が連携して議会多数勢力の反対をもってこれを差し止めてしまった。これを受けてヒンデンブルクは国会を解散させて選挙に打って出たが、これが完全に裏目に出てどうやっても多数派となる連立が組めない状況に陥った。ナチ党と共産党の左右両極が大躍進し、ナチ党に至っては国会第二党となったが、ナチ党・共産党ともに他政党との協力を拒否したからである。ブリューニングはナチ党指導部に政府に協力するよう説得を試みたが、拒絶された。結局、ブリューニングはSPDの支援によってナチ党・共産党の妨害を乗り切ることになった。SPDは極右の躍進を大いに警戒し、ブリューニング内閣に対する「寛容の方針(Tolerierungspolitik)」を打ち出して内閣不信任決議に反対する姿勢を示したが、その結果ブリューニングがヴァイマル憲法第48条に基づく大統領緊急令を乱発させて政策を実現できるようになった。このため国会の立法府としての立場は大いに失墜し、1930年には94回の本会議があったものが、1932年には13回しか召集されなくなった。 ブリューニングはSPDの寛容の方針により退陣させられる危険性が遠ざかったことを受けて緊縮財政政策を推し進めたが、実業界や極右政治同盟のハルツブルク戦線からの猛烈な反対に晒された。1932年の大統領選挙ではヒンデンブルクが再選されたものの、ヒトラーが得票率36.8%を叩き出してナチ党が大衆の広範な支持を獲得していることも明らかになった。この傾向は続いて行われた各州の選挙でもさらに強まった。ブリューニング内閣は、ナチ党の準軍事組織である突撃隊と親衛隊を活動禁止とすることで対抗しようとしたが、ヒンデンブルクの顧問で最側近のクルト・フォン・シュライヒャーはナチ党の支援を得てより権威主義的な政権を樹立しようと画策していた。シュライヒャーの構想では、ヴァイマル共和国軍がヒトラーとナチ党を下に置く支配勢力となるはずであった。ブリューニングによる突撃隊と親衛隊の禁止は、シュライヒャーの計画に真っ向から反対するものであったため、シュライヒャーはブリューニングの解任に動いた。1932年5月29日、ヒンデンブルクはブリューニングに辞職要求を突き付けたが、その直接的な理由はエルベ川より東の領土において、ユンカーが管理しきれない土地を失業者に分配するという政策に関する意見の不一致であった。
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