「政治将軍」として暗躍
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「クルト・フォン・シュライヒャー」の記事における「「政治将軍」として暗躍」の解説
1925年5月12日にパウル・フォン・ヒンデンブルクが大統領に当選すると、その息子オスカーを通じてシュライヒャーは大統領に個人的に影響を及ぼすようになり、ヴァイマル共和国軍、更には政界においてもその影響力を強めた。1926年に国軍省内に大臣官房として新設された政務課の課長に就任する。陸軍統帥部長官ゼークトはシュライヒャーの政治権力拡大を抑えつけようとしていたが、1926年10月にゼークトが失脚したことでシュライヒャーの足枷が外れる形となった。 さらに1928年1月にグレーナーがヘルマン・ミュラー内閣の国防相となったことがシュライヒャーの権力を押し上げた。グレーナーは教え子シュライヒャーを「我が養子」と呼ぶほど信頼していた。1929年1月に少将に昇進。また陸軍と海軍の共通の問題の処理、国軍省と他省庁や政党との交渉を担当する部門として国軍省に大臣官房(Ministeramt)が置かれ、官房長にシュライヒャーが任じられた。彼は「政治将軍」として本格的に暗躍を開始する。グレーナーはシュライヒャーを「私の政治担当の枢機卿」と称し、彼の政治的能力にすっかり依存してしまった。 1929年初頭からシュライヒャーは、ミュラー首相の大連立の政府をブルジョア右翼政府と取り替えるようヒンデンブルク大統領に迫っていた。シュライヒャーはハインリヒ・ブリューニングに目を付け、彼と再軍備の財政問題で合意し、ヤング案締結後に彼を首相にするための工作を行った。結果、1930年3月30日にブリューニング内閣が成立した。 1931年7月28日、従兄弟の未亡人でフォン・ヘニング将軍の娘エリザベートと結婚した。同年、中将に昇進。 1932年4月13日にブリューニング首相とグレーナー国防相兼内相は、ヒンデンブルク大統領にナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する命令を出させた。しかし効果は薄く、4月23日に各州で行われた地方選挙でナチ党はバイエルン州を除き、全ての州議会で第一党に躍進した。シュライヒャーはブリューニング内閣を見限り、自分を中心とした右翼大連立政権を画策してナチ党に接触し、4月28日と5月8日にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーと密会した。両者はブリューニングとグレーナーを失脚させること、突撃隊禁止命令を解除すること、国会を解散すること、国会選挙までは新内閣に寛容をもって臨むことなどで合意した。ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した。ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた。 さらに東プロイセンの地主(ユンカー層が占める)が管理しきれない土地を失業者に分配するというブリューニングの政策にユンカーたちが「農業ボルシェヴィズム」と反発したのを機にシュライヒャーはヒンデンブルクにブリューニング解任を提案した。ヒンデンブルクはこれに同意し、5月29日にブリューニングを呼び出し、「今後は右翼政治を行うべし」「労働組合指導者層とは手を切るべし」「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」と命じた。事実上の辞職要求と感じたブリューニングは翌5月30日に総辞職した。
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