政界において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 06:39 UTC 版)
「ジョージ・グランヴィル (初代ランズダウン男爵)」の記事における「政界において」の解説
グランヴィルの両親と親族にあたる初代バース伯爵ジョン・グランヴィル(英語版)、第2代バース伯爵が1701年に相次いで死去し、1702年にアン女王が即位すると、グランヴィルは政界で力を発揮するようになった。まず初代バース伯爵の家族からの支援を受けて1702年にフォイ選挙区(英語版)で庶民院議員に当選、翌年にペンデニス城総督(英語版)に任命された。議会ではロバート・ハーレーの勢力圏内で活動、ゴドルフィン=マールバラ政権(ホイッグ党)中の1710年にはヘンリー・サシュヴェレル(英語版)を弁護して名声を得た。 ゴドルフィン=マールバラ政権が倒れると、グランヴィルはコーンウォール選挙区(英語版)の議員になり、1710年9月28日には戦時大臣に任命された。戦時大臣の在任中に軍需品や募兵に関する重要な法案が議会を通過するよう留意したが、トーリー党政権期のグランヴィルは家族内紛や法廷闘争に悩まされた。すなわち、第3代バース伯爵ウィリアム・グランヴィルが1711年に子供のないまま死去すると、ジョージ・グランヴィルはグランヴィル家の世嗣ぎになったが、バース伯爵は継承できず、1712年1月1日にビディフォードのランズダウン男爵に叙されただけだった。ジョージ・グランヴィルは多くの時間や資金を費やしてバース伯爵の爵位を確保しようとしたが、結果は失敗に終わった。戦時大臣としても汚職を疑われ、また選挙で対立候補を立てられたため資金を費やして選挙戦を戦わざるを得なかった。1712年8月18日、枢密顧問官に任命された。また、1712年7月から1713年8月まで王室監査官(英語版)を、1713年から1714年まで王室会計長官(英語版)を務めた。 1714年にアン女王が死去すると、ジョージ1世が王位を継承したが、ジョージ1世がホイッグ党を支持したため、トーリー党員で官職を務めた人物はほぼ全員罷免され、ランズダウン男爵もその1人だった。ランズダウンは不平を感じてジェームズ老僭王と秘密裏に文通を交わすようになり、老僭王はアン女王が創設したランズダウン男爵の爵位を承認しなかったものの彼を改めてランズダウン男爵に叙し、さらにバース伯爵にも叙した。1721年11月3日にはさらにモンク=フィッツヘモン侯爵とアルベマール公爵に叙した。これらの爵位はいずれもジャコバイト貴族におけるイングランド貴族に属したため、グレートブリテン王国国内では承認されなかった。このうち、「フィッツヘモン」は家祖とされるリチャード・デ・グレンヴィル(英語版)(チャールズ2世が1661年にジョン・グランヴィルを初代バース伯爵に叙したときの特許状より)がロバート・フィッツヘモン(英語版)の部下だったことに由来し、「モンク」と「アルベマール」はモンク家のアルベマール公爵位に継承者がいなくなった場合にバース伯爵家が継承するとの規定に由来、「ランズダウン」は祖父ベヴィル・グランヴィルがランズダウンの戦い(英語版)で戦死したことによる。また、1721年11月3日に創設された爵位は男系子孫が絶えた場合に弟バーナードの男系子孫が継承すると定められた。 1715年ジャコバイト蜂起が勃発すると、ランズダウン男爵も加担した容疑者の1人として1715年9月26日から1717年2月8日までロンドン塔に投獄された。1721年にパリに移ってアタベリー陰謀事件に関与したほか、そこで10年間住み、多くの作品を著した。アタベリー陰謀事件が失敗に終わると、1730年にジョージ2世への忠誠の誓いをしたが、以降は政治に関わらなかった。 1735年1月29日、妻の後を追うようにロンドンで死去、2月3日にセント・クレメント・デーンズ(英語版)の教会に埋葬された。継承者となる男子をもうけなかったため、ランズダウン男爵は断絶、ジャコバイト貴族としての爵位は弟バーナードの息子バーナード(1776年没)が継承したが、彼が死去すると1721年11月3日に創設された爵位は断絶した。
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