政界と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 09:00 UTC 版)
1866年、ドッジはアメリカ合衆国下院議員アイオワ州第5選挙区の候補を決める共和党大会で現職のジョン・A・カッソンを破った。一般選挙でも北軍で同僚だったジェイムズ・M・タトルを破って当選した。この選出は、まだ鉄道建設に多くの時間を割かなければならなかったので、問題になった。ワシントンに居る間(第40期議会)、ユニオン・パシフィック鉄道のためにしばしばロビー活動を行い、また西部の国内改良を支持した。ドッジは下院議員を1867年3月4日から1869年3月3日まで務めた。 ドッジは1868年にシカゴで、また1876年にシンシナティで開催された共和党全国大会の代議員となった。下院議員の任期が満了になった後は、鉄道技師に戻った。1880年代と1890年代、ドッジは数多い鉄道会社の社長あるいは主任技師を務めた。開発してきた多くなるばかりの事業を取り仕切るためにニューヨーク市に行った。 ドッジはアイオワ州に戻り、1916年にカウンシルブラフスで死んだ。そこのウォルナットヒル墓地に埋葬されている。ドッジの家、グレンビル・M・ドッジ・ハウスは国定歴史史跡となっている。 西部開拓時代に重要な軍事基地だったカンザス州ドッジ砦はドッジの名誉を称えて名付けられた。ユニオン・パシフィック鉄道の本社があったネブラスカ州オマハのドッジ通りは、ドッジに因んで名付けられたと言われることが多いが、実際はアイオワ州の影響力ある上院議員だったオーガスタス・C・ドッジに因むものである。
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