政界における活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 22:44 UTC 版)
「ジョージ・ベンティンク」の記事における「政界における活動」の解説
1822年から1825年にかけて、叔父の外務大臣ジョージ・カニングの個人秘書を務める。1828年から1848年にかけてキングス・リン選挙区(英語版)選出の庶民院議員を務めた。しかし庶民院議員になってから8年も演説することがなく、彼は庶民院の議場を討論の場というより社交界のように使っていたという。 党派ははじめトーリー党カニング派であったが、トーリー党保守派のウェリントン公爵が首相となった後に彼の守旧的施策に反発してホイッグ党に移籍した。グレイ伯爵内閣の改革を支持したが、やがて付いていかれなくなり、スタンリー卿に従ってホイッグ党を離党し、ダービー派に所属。ダービー派の保守党合流で保守党に復帰し、1841年成立のロバート・ピール政権を支持するようになった。このように党派を行ったり来たりしたジョージ・ベンティンク卿だが、ベンジャミン・ディズレーリによれば彼は保守党に戻ってきた後もホイッグ(自由主義)的な心情を持っていたという。 1846年以前にディズレーリとベンティンクが会話した痕跡はないが、1846年にピールが行った穀物法廃止への反対運動を通じて2人は固い友情で結ばれるようになった。2人は保守党議員をピールに造反させるべく、議場で激しいピール攻撃を展開した。結局穀物法廃止は阻止できなかったものの、アイルランド強圧法をめぐってこれを否決に追い込んだことで1846年6月にピール内閣倒閣に成功した。 ブレイク男爵(英語版)は「ピールを打倒したのはディズレーリであると一般には思われている。それはそれで事実であるが、ベンティンク抜きで果たして打倒できたかどうか。」「ベンティンクは公爵の息子であり、生まれながらに富裕で、馬場の王様で、ある首相の孫、ある首相の甥にあたるような人物だった。彼は自然に人々がリーダーと仰ぐ類の人物だった。」「彼がいなければディズレーリの名前は打倒劇のどん尻にしか挙がらなかったのでは」と推測している。 ピール内閣倒閣をめぐる党内亀裂で、ピールや保守党の有力議員のほとんどは保守党を出てピール派へ移籍した。新たな保守党党首にはスタンリー卿が就任し、保守党庶民院院内総務(英語版)にはベンティンクが就任した。だが彼の能力では長くその座にあるのは難しく、やがてディズレーリに取って代わられるだろうと噂されていた。 1847年の総選挙で当選したユダヤ人の庶民院議員ライオネル・ド・ロスチャイルドが、キリスト教宣誓を行えないが故に議場に入れないという事態を受けて、ユダヤ教宣誓を認める動議が提出された。ユダヤ人の息子である盟友ディズレーリはこの動議を熱心に支持した。ベンティンクはユダヤ問題にほとんど関心がなかったが、ディズレーリとの友情から賛成した。 しかし、この動議に賛成するというベンティンクの方針は、反ユダヤ的な保守党議員の反発を招いた。これを機にベンティンク卿は、保守党庶民院院内総務を辞職することになった。ただ、辞職に追い込まれたというよりは、それを口実にして自ら辞めたようである。この頃ベンティンクは感冒を患っており、また保守党庶民院院内総務の職務を自分には重荷と自覚するようになっていたため、辞職したがっていたという。後任の保守党庶民院院内総務になったのはグランビー侯爵だったが、彼もすぐに重圧に耐えきれなくなって職務を投げ出した。その際に返り咲きを求められたものの、拒否している。
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