政界のドンとは? わかりやすく解説

政界のドン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:56 UTC 版)

金丸信」の記事における「政界のドン」の解説

保利から「冷や飯食って耐え忍ぶ」という政治信念薫陶受けた金丸は、政界風見鶏呼ばれた中曽根康弘立ち回り肯定できず、中曽根自民党総裁になるまでは日本一中曽根嫌いを自認していた。田中中曽根総裁擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ神輿」とまで批判していたが、中曽根政権では自民党総務会長幹事長副総理重用された。鈴木内閣末期開かれた中曽根派田中派料亭会合の際に、表向き和解したとされており(内心中曽根生涯嫌っていた)、その際中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来大物だ」と金丸を評している。 金丸防衛庁長官であった1980年就役した、しらね型護衛艦についても「政界のドン」たる逸話がある。防衛庁しらね型1番艦の命名先立ち気象山岳名基準とする自衛隊命名規則照らしたうえで、当時最新鋭かつ最大級の艦であるヘリコプター搭載護衛艦DDH)は「はるな」、「ひえい」と、旧海軍戦艦使用されていた「山岳名」から取るのがセオリーとなりつつあったことから、1番艦を「こんごう」、同じく2番艦「きりしま」とする予定であった。しかし金丸が、自らの選挙区にある白峰三山北岳俗称白根山からとって、「しらね」とすることを強硬に推し最終的に「しらね」と命名された。政治家一存自衛艦名が決められたのは、後にも先にもこのときだけである。 1984年側近小沢辰男推す田中意向反して中曽根総理金丸幹事長に指名した。翌1985年田中派内に勉強会創政会」を結成する。この動き金丸親戚である竹下後継領袖とするクーデターであったことを知った田中猛烈な切り崩しをかけるが、創政会発足直後田中脳梗塞倒れたことで創政会優勢が固まる。反対派中間派の取り込みのために創政会を一旦解散した後、田中派大多数まとめて1987年7月独立派閥の「経世会」(竹下派)を発足させる竹下総理就任後は金丸経世会会長就任した同年初当選してから文字どおり二人三脚歩んできた“金竹関係”だったが、頂点極めた頃から隙間風が吹くようになった総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり、竹下連絡取らないことをなじった金丸配慮してその後はたびたび極秘裏に金丸邸を訪れることになる。 1989年消費税導入による不人気リクルート事件発覚し竹下内閣総辞職竹下謹慎し、後継総裁には宇野宗佑就いたが、話を聞かされていなかった金丸は、元・総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立動いていたため面目を失った最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われマダム」と評したとはいえ宇野政権1989年参院選過半数割れ大敗により2ヶ月あまりで倒れると、最大派閥会長である金丸大きな力を持つようになる宇野退陣後ニューリーダーリクルート事件影響出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身候補上がるが、竹下らの反発潰され出馬意欲的であった河本敏夫電話し出馬辞退させた。日本社会党マドンナブーム関しバーマダム長谷百合子議員のこと)が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家生まれるのは問題だ。」と発言した結局河本派海部俊樹総理総裁選出されたが、参議院自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調政権運営不可欠となった状況で、国対族ベテランであり最大派閥経世会会長たる金丸と、同じく国対族経世会オーナー竹下、さらに両者姻戚自民党幹事長小沢一郎経世会中枢3名の権勢海部首相のそれを凌駕し金竹小称された。金丸竹下派七奉行中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月竹下反対押し切って47歳若さ自民党幹事長就任させるなど、小沢強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少小沢重用橋本龍太郎梶山静六竹下に近い議員反発を招くことになり、後の竹下派分裂引き金となった長く国会対策委員長務めて日本社会党議員交流し社会党との連携党内対立制する手法身に付けた。1980年代末から、自民党社会党解体再編成して政権交代する二大政党作るという政界再編構想を抱くようになった。特に「足して二で割る」という絶妙妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった1990年8月中華人民共和国訪問して北朝鮮訪問向けた協力要請した同年9月には日本社会党田辺誠らと訪朝団を団長として編成した金丸訪朝団)。金丸と金日成は、日本語用いて差し対談行った。しかしやり取り文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白数時間の間に取り決められといわれる約束が、日朝交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある重村智計によれば、この会談冒頭金日成金丸に「ご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております」と話し始めた という。 このとき自民党代表として国交正常化統治時代補償とともに南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束自民党社会党朝鮮労働党の3党で交した。この約束帰国後「土下座外交」と批判浴びた。このとき、1983年北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件関連して北朝鮮スパイとして拿捕され7年間服役していた「第十富士山丸」の日本人紅粉船長浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意し、こちらは実行された。 1991年10月自民党総裁選では、当初小沢一郎出馬促した本人固辞し他派領袖擁立することとした。派内の橋本龍太郎が高い一般人気を誇る中で、金丸小沢は派内の異論押し切って宮澤喜一支持した。なお、金丸本人渡辺美智雄支持最後まで拘った。「心情ミッちゃんだが、常識的判断になるとミッちゃんというわけにはいかない宮沢行こう。」と述べた東大出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を、金丸はもともと毛嫌いしていた。しかし、宮澤当時世論財界圧倒的な支持があったこと、経世会宏池会長年蜜月関係にあったことから、渋々宮澤支持転じた。派内の渡辺支持派金丸渡辺支持断念したことにより、一気に派として宮澤支持移行したとはいえ宮澤支持するという金丸報告を派の集会拍手承認するという段取りだったにもかかわらず拍手がまばらで、金丸叱りつけてようやく拍手増えるというぎくしゃくした状況であった宮澤自派増岡博之国会対策委員長起用したが、増岡国対経験乏しく野党とのパイプもなく、宮澤PKO協力法案の成立政治改革実現目指したがPKO協力法案は継続審議になり政治改革は進まなかった。そこで宮沢金丸担ぎ出し直接動き出す自民党副総裁への就任だったが、宮沢アメリカジョージ・H・W・ブッシュ大統領使った宮沢次のようなエピソード明かしている。「92年お正月ブッシュ日本訪れることがあったので・・・私はブッシュに「ちょっと手伝ってくれよ。この人金丸)の協力党内必要なんだ。あなたのディナーにも来るから、僕がその時サインするから、ひとこと声をかけてくれよ」と頼んだんです。そうしたらブッシュは、「いいよ、そういうことなら得意とするところだ。」と言う。それで金丸さんに対してブッシュが「あなたのことはよくミヤザワから聞いている、ひとつ助けてやってくれ」というようなことを言ってくれたんです。それがあって金丸さん副総裁になってくれました。」。金丸ブッシュとの夕食会のあった1992年1月8日自民党副総裁受諾し政権安定し宮澤政権支柱となり、天皇訪中決定躊躇う宮澤に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」 と発破をかけるなど暗躍した1992年3月栃木県足利市山岡賢次応援演説中に右翼銃撃を受けるが、弾丸全て外れ金丸は助かる。同年3月25日世界基督教統一神霊協会教祖文鮮明特例措置14年ぶりに日本入国したアメリカで脱税により1年以上実刑判決受けているため、それまで出入国管理及び難民認定法規定入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員会合出席する名目田原隆法務大臣から上陸特別許可下りた法務省入国管理局金丸から打診があったことを認めたため、金丸法務省対す政治的圧力をかけたのではとの疑惑生んだ同月31日金丸都内ホテル文鮮明会談持った同年埼玉県知事選挙では畑和後継巡り公示直前土屋義彦支持撤回し山口敏夫担ぎ出そうしたため反発浴びた結果として土屋埼玉県知事当選した)。また金丸首都機能移転推進論であったといい、反対派石原慎太郎強く批判している。

※この「政界のドン」の解説は、「金丸信」の解説の一部です。
「政界のドン」を含む「金丸信」の記事については、「金丸信」の概要を参照ください。

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