政界のライオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 00:17 UTC 版)
「クルト・シューマッハー」の記事における「政界のライオン」の解説
1949年に新生西ドイツ初の総選挙でドイツ連邦議会議員に当選。しかし SPD は事前の予想に反し、僅差で第一党の座をキリスト教民主同盟 (CDU) に奪われた。SPD 党内には CDU との大連立を主張する声もあったがシュマッハーは拒絶。首相指名選挙で CDU のコンラート・アデナウアーと争ったが敗れた。その背景には、かつて SPD の地盤であった地域が東ドイツに編入されたことや、シューマッハーの健康への不安、有権者の広汎な反共・反社会主義感情があった(もっとも、シューマッハ自身は反共主義者であった)。同年行われた初代連邦大統領の選挙にも出馬したが、自由民主党候補のテオドール・ホイスに敗れた。 その後は野党第一党の指導者として、西側との関係を強化するアデナウアーの政策を、資本主義的であり、ドイツ統一を妨げるものとして批判し続けた。策士で老獪なアデナウアーが「狐」とあだ名されたのに対し、シューマッハーは「ライオン」と呼ばれた。シューマッハーは CDU などとの安易な妥協を許さない一方で、ヴァイマル共和政時代の不毛な党争を教訓として建設的な議論を心がけ、このことは戦後の西ドイツ政治を特徴付ける二大政党制の定着に繋がった。しかし、長い強制収容所暮らしの後遺症から1948年に血栓症で左足を切断するなどいっそう健康が悪化していた彼は、1952年に急死した。強烈なカリスマ性から敵も多かったが、その死を惜しむ群集がボンからハノーファーの墓所に向かう彼の葬列を見送った。
※この「政界のライオン」の解説は、「クルト・シューマッハー」の解説の一部です。
「政界のライオン」を含む「クルト・シューマッハー」の記事については、「クルト・シューマッハー」の概要を参照ください。
- 政界のライオンのページへのリンク