保守党党首に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 05:17 UTC 版)
「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「保守党党首に」の解説
穀物法廃止法案は保守党内自由貿易派と野党のホイッグ党や急進派の賛成多数により可決されたものの、保守党内には埋めがたい溝ができ、ディズレーリやベンティンク卿は野党勢力と連携して1846年6月にアイルランド強圧法を否決することでピール内閣を総辞職に追い込んだ。 ロバート・ピール以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。これによってウィリアム・グラッドストンなど閣僚や政務次官経験者はほぼすべてピール派に流れていった。 7月18日の保守党両院議員による晩餐会が開かれ、その席上でスタンリー男爵が保守党全体の党首、ベンティンク卿が保守党下院院内総務と定められた。 ヴィクトリア女王は辞職したピールに代わってスタンリー男爵に大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断して、ホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう助言し、その結果ジョン・ラッセル卿が組閣することとなった。 1851年春に父第13代ダービー伯爵が死去し、52歳にして第14代ダービー伯爵位を継承した。
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