3党鼎立と戦時下の挙国一致内閣 (1922年 - 1945年)
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「保守党 (イギリス)」の記事における「3党鼎立と戦時下の挙国一致内閣 (1922年 - 1945年)」の解説
1922年にボナー・ローとスタンリー・ボールドウィンは自由党との連立政権の崩壊を主導し、保守党党首に返り咲いたボナー・ローついでスタンリー・ボールドウィンが保守党単独政権を組閣したが、1923年の総選挙で保守党は第一党を保持したものの、自由党の閣外協力を取り付けたラムゼイ・マクドナルド率いる労働党政権が誕生した。この初の労働党政権はジノヴィエフ書簡事件などの為、同年の総選挙での敗北で崩壊した。再び保守党のボールドウィンが組閣したが1929年に労働党に再び総選挙で敗れて下野した。しかし労働党のマクドナルド内閣はこの年起こった世界恐慌への対応策として年金削減等を行ったことで労働党から除名され、1931年マクドナルドは自由党、保守党を加えて労働党を除いた「国民政府」とよばれる内閣を組閣し1935年まで続いた。1935年にマクドナルドは病気引退し、ボールドウィンついで1937年にはネヴィル・チェンバレンが国民政府を継承し組閣した。しかし、チェンバレンは独裁者のアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツに宥和策をとり続けた結果、ポーランド侵攻をまねき第二次世界大戦が始まった。1940年にフランスの敗勢が明らかになるとチェンバレンは退陣した。代わってウィンストン・チャーチルは保守党、労働党、自由党からなる挙国一致内閣を組閣し、そのリーダーシップで第二次世界大戦を戦った。しかし、第二次世界大戦の対ドイツ戦勝利後の1945年イギリス総選挙で労働党に敗北し、チャーチルは下野してクレメント・アトリーに首相の座を明け渡した。
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