保守党の成立
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1843年1月20日、ペドロ2世はカルネイロ・レオン(このときは上院に移っていた)に組閣を命じた。それまでの内閣では皇帝が閣僚を指名していたが、カルネイロ・レオンは自ら閣僚を選ぶことで、実質的にはブラジル初の首相になった。これが前例となり、4年後には首相職が閣僚会議議長(英語版)として正式に設立された。このとき、秩序党は上院、下院、国務会議のいずれも多数を占めた。カルネイロ・レオン内閣は1842年の反乱の参加者への恩赦に反対した。しかし、反乱の参加者の多くが1年以上投獄されており、起訴しても成功する確率が低かった。カルネイロ・レオンが法務大臣として、反乱に手助けした上院議員5名を起訴しようとした結果、上院で激論になり、延長会期10か月間の予定が全く消化されなかった。また、内閣が全く譲歩しようとしなかったため、多くの支持を失った。結局、カルネイロ・レオンとペドロ2世が口論して、内閣は1844年1月末に総辞職した。 その後の4年間、秩序党は野党に回った。宮廷派は数年間政治を牛耳したが、成長して経験を積んだ皇帝が宮廷派に関連する全員を追放したことで影響力を失った。これにはコウチーニョも含まれており、彼はペドロ2世から名指しで官職追放され、影響力を一瞬にして失った。ペドロ2世はこれ以降他人の影響を受けずに決定を下すと表明した。1844年2月から1848年5月まで、ブラジルでは内閣が4回更迭され、いずれも閣僚全員が自由党出身だったが、内部分裂により成果を出せなかった。新しい技術(鉄道や電報など)と新しい制度(小学校制度など)など進歩的な試みは日の目を見ることがなかった。最後の自由党内閣が倒れると、ペドロ2世は秩序党に組閣を命じた。このとき、「秩序と立憲君主制の維持」を目的とした秩序党は単に「保守党」と呼ばれるようになった。元摂政のペドロ・デ・アラウジョ・リマ(英語版)が首相に就任した。
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