保守党の貴族院での反対闘争
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「議会法」の記事における「保守党の貴族院での反対闘争」の解説
1905年12月に成立した自由党政権ヘンリー・キャンベル=バナマン内閣は、1906年1月の解散総選挙に大勝し、庶民院多数派を得たが、これに対して保守党党首・保守党庶民院院内総務(英語版)アーサー・バルフォアと保守党貴族院院内総務(英語版)ランズダウン侯爵に率いられる野党保守党は、保守党が半永久的に多数を占める貴族院から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。 1906年4月には初等教育から宗教教育を排除することを目的とした「教育法案」が貴族院で大幅に修正され、法案撤回に追い込まれた。これに対してキャンベル=バナマンは、1907年6月に庶民院の優越を定める法律を制定すべきとする決議案を議会に提出した。その決議案説明の中で商務庁長官デビッド・ロイド・ジョージは「貴族院は長きにわたり、憲法の番犬だったが、今やバルフォアのプードルである。彼のために吠え、使い走りをし、彼がけしかけたどのような物にも噛みつく」と貴族院を批判した。 だが貴族院の態度は変わらず、首相がハーバート・ヘンリー・アスキスに変わった後の1908年7月には醸造業者の独占制限を目的とする「酒類販売免許法案」を否決した。これに対して通商大臣ウィンストン・チャーチルは「我々は貴族院を震え上がらせるような予算案を提出するであろう。貴族院は階級闘争を開始したのだから」と述べたという。 決定的な契機となったのは、1909年に大蔵大臣ロイド・ジョージの提出した「人民予算(英語版)」を貴族院が否決したことだった。この予算案は土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う「アカの予算」として強い反発を招いていたためだった。しかし貴族院が金銭法案を否決するのは17世紀以来のことであったので大きな波紋を呼んだ。
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