保守党中堅議員時代
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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「保守党中堅議員時代」の解説
1837年12月に正式に保守党に入党した。 1841年に誕生したロバート・ピール保守党政権に再び陸軍・植民地大臣として入閣した。阿片戦争の最終局面を指導して清に南京条約を締結させることに成功した。また英領カナダとアメリカ合衆国の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した。 スタンリー卿は保護貿易主義者であり、野党ホイッグ党や首相ピールが検討していた穀物法廃止には反対の立場であったが、植民地と本国間の関税を軽減することには賛成であり、カナダ産小麦の関税を下げるカナダ穀物法を通している。 1844年10月に繰上勅書により、父のビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)の称号で貴族院へ移籍した。 1845年夏にアイルランドで発生したジャガイモ飢饉により、野党を中心にパンの値段を下げるため穀物関税を定めている穀物法廃止の機運が高まり、11月にピール首相も穀物法を廃止の方針を表明した。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。スタンリー男爵もバクルー公爵とともに反対した。ピールは2人を説得できず、内閣は一度総辞職した。しかし女王が大命を与えたホイッグ党のジョン・ラッセル卿が組閣に失敗したため、再度ピールに大命があり、12月にスタンリーとバクルー公爵の2人だけを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた(スタンリー男爵の後任はウィリアム・グラッドストンだった)。 以降、スタンリー男爵は貴族院における反ピール運動の中心的人物となった。一方、庶民院でその運動を主導したのはベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿だった。
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