サッチャー内閣
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サッチャー内閣(サッチャーないかく)は、マーガレット・サッチャーを首相としたイギリスの内閣である。
- 第1次サッチャー内閣(1979年 - 1983年)
- 第2次サッチャー内閣(1983年 - 1987年)
- 第3次サッチャー内閣(1987年 - 1990年)
関連項目
- サッチャー内閣の大臣一覧
- サッチャー政権
- サッチャー影の内閣
サッチャー内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 02:30 UTC 版)
1979年にサッチャー内閣が誕生すると財務大臣に就任した。ハウはサッチャリズムの熱心な信奉者として知られ、大蔵省副大臣(金融担当大臣)ナイジェル・ローソンの起草からなる中期金融財政戦略(MTFS)を採用した。これはインフレの抑制を最重要目標とし、経済管理にマネタリストのアプローチを用いようという物であった。インフレの抑制の他、歳出削減による財政赤字縮小、間接税への移行、為替管理廃止、非課税企業地域の創設、民営化などを推進した。 1983年には外務・英連邦大臣に転任。アメリカ国務長官ジョージ・シュルツと緊密な関係を築き、サッチャーとアメリカ大統領ロナルド・レーガンの結束を支えた。 欧州共同体(EC)との関係改善にも努め、1985年にはサッチャーを説き伏せて単一欧州議定書に署名させた。さらに1989年には欧州為替相場メカニズム(ERM)への加入をサッチャーに進言したが、サッチャーが慎重姿勢を崩さなかったため、マドリードでのEC首脳会談の前に財務大臣ナイジェル・ローソンとともに辞職をちらつかせる強硬な進言を行った。サッチャーは二人を慰留したものの、マドリードでの首脳会議でサッチャーと諍いを起こしたことが原因で、同年7月の内閣改造でハウは外相から外された。代わりに副首相・庶民院院内総務・枢密院議長のポストが与えられたが、これは左遷も同じだった。 なおもハウはヨーロッパ統合問題での落としどころを探っていたが、サッチャーのいかなる欧州統合も拒否する姿勢にうんざりし、1990年11月1日に辞任を表明した。11月13日の辞任演説では「最初の球が投げられる時、打席に割って入ろうとして分かったことは、チームのキャプテンによって試合前に、バットがことごとく破壊されていたことだった」と述べてサッチャーを批判する演説を行った。
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