第2次サッチャー内閣国防大臣
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「マイケル・ヘーゼルタイン」の記事における「第2次サッチャー内閣国防大臣」の解説
1983年1月に国防大臣に転任。1985年末から翌年にかけてのヘリコプター製造会社ウエストランド・エアクラフトを巡る騒動の中心人物となった。同社は80年代に経営危機に陥り、政府に救済を求め、1985年に政府は支援の方針を固めたが、資本補強の方法を巡って政府内に対立が発生した。アメリカのシコルスキー・エアクラフトが資本提供を申し出ていたが、ヘーゼルタインはこれに難色を示し、ヨーロッパ企業との連携を模索した。 1985年11月末にはフランス・ドイツ・イタリアの軍備責任者を招集して国家軍備責任者(National Armament Directors, 略称NAD)会議を開催し、ヨーロッパで設計・製造された物以外のヘリコプターは買わないこととする合意を結んだ。しかしこれはヘーゼルタインの「独断専行」として批判され、欧州懐疑派のサッチャーや通商産業大臣ブリタンと対立を深めた。12月9日の内閣委員会小委員会でサッチャーは政府はNADに拘束されない旨を宣言した。これに対してヘーゼルタインは12月12日の閣議において議題になかったウエストランド問題を持ち出した。マスコミもこの頃からウエストランド問題をめぐる政府内の分裂を報じるようになった。 12月21日にはウエストランド社はイタリアのフィアット社も提携に入れることでヨーロッパ企業の体裁を整えたうえでシコルスキー社およびフィアット社と提携し、サッチャーもこの提携を支持する表明を出した。しかしヘーゼルタインはなおもこの件を問題視し、今回のウエストランドの提携契約はヨーロッパ共同開発プロジェクトと両立しないという見解を公表した。サッチャーはこれに激怒し、1986年1月9日の閣議で今後内閣と異なる意見を明らかにする前には内閣で同意を得なければならず、それは将来の発言だけでなく過去の発言を繰り返すことも対象となることを宣言した。つまりヘーゼルタインはこれ以上ウエストランド社問題に異を唱える事を禁じられた。ヘーゼルタインはこれに激怒し、「私はもはやこの内閣の閣僚ではいられない」と宣言して閣議を退席。その後直ちに記者会見を開き、辞職する意思を表明した。
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