第2次ゲイリベレーション(1980年代中盤以降)
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「日本における同性愛」の記事における「第2次ゲイリベレーション(1980年代中盤以降)」の解説
1980年代中頃から、新たにLGBT団体が生まれる。1984年に発足した「IGA日本」(1987年第1回総会以降ILGA日本)や、IGA日本から独立して1986年3月に発足し、後に「動くゲイとレズビアンの会」と名乗る「OCCUR」(アカー)などである。IGA日本は欧州に本部を置く国際的ゲイ団体、IGA(国際ゲイ連盟、1986年からILGA)がアドン編集長(当時)の南定四郎に呼びかけてできたもので、1984年9月には後に「OGC」(大阪ゲイコミュニティ)に改称して独立する「IGA日本・大阪」ができている。 IGA日本は月一回のセミナーや機関誌「JOIN」の発行、エイズ110番の開設などを行い、四谷には賛同者が気軽に立ち寄れるパブリックスペース「IGAクラブ」があった。1986年5月1日-3日にはIGA日本主催で「第1回アジアゲイ会議」が開かれている。ILGA日本が長続きできたのは、世界組織の日本支部ということやゲイ雑誌という経済基盤があったからだとされる。後にILGA日本は国内初の「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」やゲイ・パレードの立ち上げに中心的な役割を果たすことになる(後述)。他にも、1985年は東大阪市長瀬に「上方DJ倶楽部」が発足し、DJ形式でトークなどの様々な催しをカセットテープに収録してゲイのアピールとネガティブなイメージの一掃を目指した。因みにこの頃のゲイを巡る状況はHIV(エイズ)の問題抜きには語れず、ゲイリベレーションもHIVの予防啓発という側面もあった(後述)。 この様に1950年代-60年代のアングラ的なミニコミブームを経て、1970年代はゲイリベレーションが産声を上げた時代であり、1980年代にかけて様々なグループが生まれ機関紙も発行された。こうして欧米の戦略を取り入れた市民運動型の解放運動が一部ではあるが地道に実施され、1990年代にかけて素地が作られた。欧米ではマルクス主義の影響を受けたレスビアン・ゲイ・スタディーズが発展するが、日本では1990年代まで研究そのものがほとんどなく、あっても一部を除き病理的な観点からのものが多かった。だが飽くまでそれは、欧米からそのまま借用しただけの研究や左翼的解放理論がなかったということに過ぎず、南方熊楠の浄の思想、岩田準一の衆道研究、稲垣足穂の稚児愛の考察、三島由紀夫の葉隠論(『葉隠入門』)など、日本独自の同性愛研究はあった。
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