第2次サムニウム戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 04:22 UTC 版)
「サムニウム戦争」の記事における「第2次サムニウム戦争」の解説
再びサムニウム人とローマ人との間で紛争が起こったのは紀元前327年の事である。ローマはカンパニア地方全域のラテン人勢力を伸ばしており、他方サムニウム人はギリシア系の住民の多いネアポリスと同盟を結んでいた。サムニウム人とカンパニア人との間に再び紛争が起こり、今度はカンパニア人はローマに庇護を求め、再びローマ人はサムニウム人と争う事となった。これを第2次サムニウム戦争と呼び、戦争は20年間という長期に及んだ。 戦争初期、ローマはサムニウム人相手に苦戦、深刻な敗北を喫する。紀元前321年にはローマ軍はサムニウム人の住む山岳地帯奥地に進攻しサムニウム軍に包囲される。降伏したローマ人は武装解除され、後世「カウディウムの屈辱」と呼ばれる屈辱的な降伏を呑まされ600人の騎兵が人質としてサムニウムに抑留された。しかし翌年にはローマは再びサムニウムに進攻、しかし紀元前315年、ラウトゥラエの戦いでローマ軍は再び完敗を喫する。 相次ぐローマの敗北でローマを支持してきたカンパニア人もローマを見限るかどうかの選択を迫られていた。ローマと一部のサムニウム系部族との間で和議が結ばれたものの、その他多数のサムニウム人は紀元前311年に北のエトルリア人と手を結びローマを挟み撃ちにしようと画策していた。この2つの敵にローマは当初敗北続きではあったが、紀元前311年と紀元前304年にサムニウム、エトルリア双方を相手に勝利を収めるようになり、立場が逆転する。劣勢に廻った両者はローマに和議を結び第2次サムニウム戦争は終了した。 なお、この戦いを通じてローマの軍制に変革があった。まずエトルリア人の戦術からは重装歩兵戦術を取り入れてローマ軍の基盤となし、常に戦局で有利であったサムニウム人の軍制から柔軟性に富んだマニプルスを考案し、ローマの軍制に取り入れた。またこの頃に初めてローマ軍は海軍を創設している。
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