第2次ウニヴェルサール期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:29 UTC 版)
「ウクライナ中央ラーダ」の記事における「第2次ウニヴェルサール期」の解説
ペトログラートの臨時政府は、第一次世界大戦の継続を主張しドイツに対する攻勢を命令した。これは、攻勢を主張した当時の陸海相アレクサンドル・ケレンスキーに因みケレンスキー攻勢と呼ばれる。しかし、革命により指揮系統の破綻しつつあったロシア軍は敗走を繰り返した。7月14日にはドイツ東部軍が反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面にわたり崩壊した。その後、ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ(Лавр Георгиевич Корнилов)将軍がクーデターを企て、臨時政府は危機に陥った。 ロシア各地での反革命の気運の高まりを受け、ウクライナも敵対勢力の一端となることを恐れたペトログラートの臨時政府は、ケレンスキー陸海相・首相をキエフへ送り込み、キエフ、チェルニーヒウ、ポルターヴァ、ヴォルィーニ、ポジーリャの中部ウクライナ5県に限ってウクライナの自治を認めることで中央ラーダと合意を試みた。この合意は、7月16日に出された「第2次ウニヴェルサール」(第2次宣言;II Універсал)に盛り込まれた。これにより、中央ラーダとその総書記局が正式にウクライナの政府として認められ、ウクライナはロシア帝国に併合されて以来はじめて本格的な自治を手に入れた。
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