マネタリスト【monetarist】
マネタリスト(Monetarist)
マネタリスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 01:06 UTC 版)
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マネタリスト(英: monetarist)は、マクロ経済の変動において貨幣供給量(マネーサプライ)、および貨幣供給を行う中央銀行の役割など、経済のマネタリー(貨幣的)な側面を重視する経済学の一派およびその主張をする経済学者を指す。貨幣主義者または通貨主義者とも訳される。マネタリストの理論および主張の全体を貨幣主義あるいは通貨主義またはマネタリズム(英: monetarism)と呼ぶ。
概要
貨幣供給量の変動が、短期における実質経済成長、および長期におけるインフレに対して、決定的に重要な影響を与えるとする。裁量的な財政政策への傾斜を強めていっていたケインズ的総需要管理政策への対立軸として生まれ、貨幣数量説に再び光を当てるとともに、裁量にかわってルールに基づいた政策の実行を主張する点に特色がある。主唱者はミルトン・フリードマン。彼の「経済産出より早いペースで貨幣量が増えることによってのみ生まれ得るという意味で、インフレーションとはいついかなる場合も貨幣的現象である」[1]という言葉が有名である。また、主唱者フリードマンがその側面を強調したように、経済の短期変動の主因を貨幣量の変化に求める貨幣的景気循環を重視する[2]。
解説
貨幣供給量が短期の経済変動に大きな影響を与えると考えることから、裁量的な貨幣供給・金融政策に否定的であり、ルールに基づいた政策を行うべきだと主張する。これは、経済状況に対する政府中銀の認知ラグや政策が実施されるまでのラグ、そして効果が実際に波及するまでのラグという各種タイムラグの存在などから、裁量的に貨幣供給を行おうとしても常には適切な供給を行うことが出来ず、その乖離がマクロ経済に大きな影響を与えてしまうので、却って経済に不要の変動を生み出してしまうとするからである。
貨幣量が短期的には実質経済に大きな影響力を持つとする一方で、長期的には実質経済への影響がなくなりインフレにのみ作用するという考え方や、裁量よりルールを重視すべきという主張は、ニュー・ケインジアンを含め現代のマクロ経済学に広く組み込まれており、多くのモデルが何らかの意味でマネタリズム的である[3]。そのため、かつてのようなケインジアンかマネタリストか、といった区別は意味を持たなくなってきており、「今日のマクロ経済学者の中で伝統的なマネタリストを見つける事は難しくなっている」[4]と言える。
貨幣数量説
マネタリストの提唱する貨幣数量説とはアーヴィング・フィッシャーの貨幣数量方程式の変形版
マネタリスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 07:54 UTC 版)
1963年の著書『米国金融史 1867年-1960年』において、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツは彼ら流の世界恐慌の説明を開陳した。彼らの考えによれば、本質的には、世界恐慌はマネーサプライの減少によってもたらされた。フリードマンとシュウォーツは次のように書いている: 「1929年8月の周期的な山から1933年の周期的な谷までの間に、通貨流通量は3分の1強にまで落ち込んだ。」 その結果がフリードマンいう所の「大収縮」―金融引き締めの窒息効果による収入・物価・雇用の減退―である。 この頃、連邦準備制度が供給するより以上に人々はお金を欲していたのだとフリードマンとシュウォーツは主張する。その結果人々は消費を減らすことでお金を貯蓄した。また、物価は即座に下落するほど融通が利かないために、結果として、雇用と生産の収縮が起きた。連邦の過ちは何が起こったのか分からなかったことや正しい対応を取らなかったことにある。 恐慌以降、その主要な説明はマネーサプライの重要性を無視する傾向があった。しかし、マネタリストによれば、恐慌は「事実上、金融の効果の重要性の悲劇的な証明である。」 彼らによれば、連邦準備制度の世界恐慌に対処する上での失敗は、金融政策が無力であることの表れではなく、連邦準備制度が間違った政策を実行したことの表れであるという。彼らは連邦が恐慌を「起こした」と主張しているのではなく、不景気が恐慌になるのを防ぐ政策を使い損ねたと言っているだけである。 南北戦争後から20世紀初期にかけて、アメリカ合衆国とヨーロッパは政府が規定する形の金本位制を採用していた。この時期のアメリカ経済は周期的な好不況の波を受けていた。不景気はしばしば銀行不況によって引き起こされていたとみられ、特に重要なものは1873年、1893年、1901年、1907年、1920年に起こっている。連邦準備制度が1913年に成立する以前のアメリカ合衆国では銀行システムが紙幣の兌換性を停止することでこうした(1907年恐慌のような)危機に対処していた。1893年に開始して以降、金融機関やビジネスマンによる成長努力がこうした危機に介在し、取り付けに喘ぐ銀行に流動性をもたらしていた。1907年の銀行恐慌の際、J・P・モルガンの招集したその場限りの連合がこの方法でうまく介入し、それによって恐慌が遮断されており、このため通常銀行恐慌に続いて起こる大恐慌がこの時には起こらなかったのだとされる。政府がこうした解決策をとることが要求されたために連邦準備制度が設立されることとなった。 しかし1928年-1932年には、連邦準備制度は取り付けにあえぐ銀行に流動性をもたらすことはなかった。実際にはその政策はマネーサプライの急激な収縮を許すことで銀行危機に応えていた。狂騒の20年代には、中央銀行は第一の目標を「物価の安定」に定めていたが、これはニューヨーク連邦準備銀行の総裁ベンジャミン・ストロングが、物価の安定を金融目標とした非常に著名な経済学者アーヴィング・フィッシャーの弟子だからということもある。そういった事情から中央銀行は社会の物価が安定する程度にドルの流通量を保った。1928年にストロングが死に、彼の死とともにこの政策が終了し、全ての通貨・証券は背後に実際的な物品を裏付けとして持っているべきだという真正手形学説が取って代わった。この政策の為にアメリカ合衆国のマネーサプライは1929年から1933年の間に3分の1以上に減少することになった。 この通貨減少によって銀行への取り付けが起こっても連邦は真正手形学説を保持し、1907年恐慌を遮ったときの方法で銀行に貸し付けることを拒否し、代わりに各銀行を破滅的な取り付けにあえぐままにさせ完全に没落させた。この政策によって連鎖的な銀行の倒産が起こり、当時存在した銀行の3分の1が消滅した。。ベン・バーナンキによれば、続いて起こった信用危機によってさらに倒産の波が起こった。1907年と同じ政策が1930年終わりの銀行恐慌の際にも採用されていればこれによって物価下落時の資産の流動化の強制の悪しき連鎖が防げただろうとフリードマンは述べた。そうしていれば、1893年や1907年に兌換性停止によって当時の流動性危機がすぐに止んだのと同じく、1931年、1932年、1933年の銀行恐慌は起こらなかったであろうというのである。 マネタリストによる説明はサミュエルソンの著書『経済学』において否定されており、「連邦準備制度の金融政策を景気循環を制御する万能薬とみなす経済学者は今日ではほとんどいない。純粋に金融的なファクターは原因であるのと同じだけ徴候であると考えられる、悪化させる効果を伴っており完全に無視すべきではない徴候ではあるが。」と述べられている。ケインズ経済学者のポール・クルーグマンによれば、フリードマンとシュウォーツの著作は1980年代までに主流派経済学者の間で支配的になったが、1990年代日本の「失われた10年」の下に再考されるべきであるという。経済危機における金融危機の役割は世界金融危機 (2007年-)に関する活発な議論で扱われている。世界金融危機 (2007年-)の原因(英語版)を参照。
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