野党党首として (1830年-1834年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「野党党首として (1830年-1834年)」の解説
以降ウェリントン公爵は1834年まで野党としてのトーリー党を指導したが、この頃から党の実務を庶民院トーリー党の指導者サー・ロバート・ピール准男爵に委ねるようになった。ただ自由主義的なピールは党内に敵が多かったので、当面はウェリントン公爵が党首として睨みを利かせる必要があった。またピールに実務を委ねるようになったとはいっても、しばしば政治への意欲を取り戻しては、貴族院からトーリー党を指導してピールの党指導を掣肘した。 改革に燃えるグレイ伯爵政権はまず選挙法改正を目指したが、ウェリントン公爵率いるトーリー党はその反対運動に全力をあげた。1831年の解散総選挙(英語版)のホイッグ党の大勝で選挙法改正の大勢を覆しがたくなっても、貴族院で法案を修正して骨抜きにすることは諦めなかった。 1832年5月、選挙法改正法案の審議の際に政府が敗北したことでグレイ伯爵が総辞職を表明し、ウィリアム4世はウェリントン公爵に組閣の大命を与えた。だが選挙法改正反対論者が首相に就任することへの世論の反発は激しく、裕福な中産階級が中心となって納税拒否や銀行預金一斉引き出しといった形で抵抗運動が起こった。恐慌に発展することを恐れたイングランド銀行理事がウェリントン公爵に組閣を断念するよう説得に現れるほどの事態となった。結局ウェリントン公爵は組閣を断念し、グレイ伯爵が再組閣することになった。この一件以来、ウェリントン公爵は「二度と首相はやらない」と公言するようになった。 結局、選挙法改正問題は、選挙法改正法案に賛成する貴族院議員を新たに任命すべきというホイッグ党の要求をウィリアム4世がしぶしぶ受け入れたことで、ウェリントン公爵ら貴族院トーリー党が抵抗を諦め、1832年6月に第1次選挙法改正が達成されるという結果となった。 ホイッグ党はこの選挙法改正をはじめとして政治改革を多数行ったものの、それによってホイッグ党内の亀裂も徐々に深まり、1834年5月にはスタンリー卿(後のダービー伯爵)らが閣僚職を辞し、ホイッグ党から離党してダービー派を形成する事態となった。求心力低下を抑えがたくなったグレイ伯爵は7月に辞職し、後任にメルバーン子爵が就任したが、メルバーン子爵は人事案をめぐって国王ウィリアム4世と対立し、11月にも罷免された。
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野党党首として
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「野党党首として」の解説
下野したチャーチルは70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった。1945年8月に日本が連合国に対して降伏し、第二次世界大戦が終結したことを受けて、この後に『第二次世界大戦(英語版)』を全6巻で著し、1948年から1年ごとに1巻ずつ出版されていった。 チャーチルの口述方式で著され、チャーチルの自画自賛が目立つが、陸海軍将官や歴史学者などを総動員した大著となった。この本はベストセラーとなり、チャーチルに莫大な富をもたらし、首相在任中の1953年にはノーベル文学賞の受賞にも至っている。しかしチャーチルはノーベル平和賞を欲しがっていたので、文学賞の受賞には失望したという。
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