野党への転落
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「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事における「野党への転落」の解説
だが、信仰自由宣言は官職や土地所有などを事実上独占していた国教徒の反発を招き、宗教上の対立が再燃するという副作用をもたらした。下院は予算を認めるかわりに信仰自由宣言の撤回を強く求め、チャールズ2世は屈せざるをえなかった。さらに下院は審査法(1673年3月20日)を通過させ、文官・武官の職につく際に国教会形式の宣誓を義務づけた。シャフツベリは審査法に対しては消極的賛成の立場を取っていた。カトリックを歯牙にもかけないシャフツベリであったが、非国教会プロテスタントにも適用が及ぶとなるといささか複雑だったのである。 信仰自由宣言の撤回と審査法成立は、cabalの政治的影響力、とりわけ議会への支配力が低下してきていることを印象づけた。cabalの"C"にあたる大蔵卿トマス・クリフォードは、審査法によって定められた宣誓を拒否して辞任、ジェームズも同様に海軍総司令官から退いている。また、チャールズ2世はこの頃から時おり病に臥せるようになり、後継者問題が再び耳目を集めだした。シャフツベリはジェームズの代わりにモンマス公を後継者に据えようと活発に働きかけたが、そうはさせまいとするジェームズとの争いに敗れ、結果的に王の信用を失って1673年に大法官職を罷免させられ、翌1674年には枢密院からも除籍された。 cabalのうちクリフォードは既に辞任しており、バッキンガムは下野して野党化、cabalの"A"にあたるアーリントンはバッキンガムとの対立が原因で1674年に国務大臣を辞任、残る"L"のローダーデイルは国王の代官としてスコットランド統治に当たりイングランドの政界に関わらなくなったため、cabalによる政権は終焉、クリフォードの後任として大蔵卿に就任したダンビー伯トマス・オズボーンが新たにチャールズ2世の側近として台頭した。
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野党への転落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 20:11 UTC 版)
しかし、韓民党と李承晩の連合は大韓民国樹立前の短い一時期にしか成立せず、後に両者は激しく対立した。最初の対立は憲法制定において大統領制か議院内閣制を採用するかを巡っておきる。韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。 つづいて国務総理の人選をめぐって両者の対立が起こる。金性洙を推す韓民党に対し、当初李承晩は李允栄を国務総理に任命しようとしたが、27対120の大差で否決される。しかし李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命し、110対84で承認を得る。さらに李承晩は初代内閣の組閣にあたり韓民党の勢力を徹底的に排除する。韓民党からは金度演のみが財務部長官に任じられた。こうして韓民党は野党となる。 韓民党は1949年1月26日に、申翼熙の大韓国民党、池青天の大同青年団と統合して民主国民党(民国党)へと再編された。翌年1950年6月に勃発した朝鮮戦争により、湖南財閥の中心企業であった京城紡績の設備が著しく破壊された上に、李承晩は京城紡績の預金引き出しを停止し、圧力をかける。こうした結果、京城紡績は与党自由党に資金供給を行うようになり、民国党は湖南財閥の支持を失い、金性洙も政治の表舞台から姿を消していく。 1955年には民主党へと再編・改称され、李承晩政権における野党勢力の中核を担い、1960年4月の四月革命で李承晩が退陣した後で成立した第二共和国の与党となった。 韓民党の流れをくむ政党は、複雑な離合集散はあったものの、第六共和国に至るまで野党勢力の中核をなして政権と対立しつづけた。そのため、李承晩と韓民党との連合は後の目から非常に奇妙なものとして映っている。
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