スコットランド統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:05 UTC 版)
「ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「スコットランド統治」の解説
チャールズ2世はジェームズを守るため、このヒステリーが鎮まるまで1679年にネーデルラントのブリュッセルに逃れさせた。更に騒ぎの伝播していないスコットランドに移し、そこでローダーデイル公ジョン・メイトランドに代えて国王名代の地位に据えた。ジェームズはスコットランドで王位継承の根回しを進めるとともに、スコットランドでのジェームズの人気を確保した。一方で宗教弾圧も決行、長老派教会のカヴェナンターを弾圧している(殺戮時代)。 排除法案などを提出したのは元閣僚で反カトリック・反ジェームズの中心的人物であるシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーである。彼ら急進派(後にホイッグと呼ばれる)は、カトリック陰謀事件の熱もおさまって政治的攻勢をかけられなくなり、合法的な手段でジェームズの王位継承を阻止することが不可能と判断した。この当時、カトリックではあっても血筋正しいジェームズが王であるべきだという保守派(後にトーリーと呼ばれ、ホイッグと並び二大政党制の基礎となる)も少なからず存在した。 排除法案に対抗してチャールズ2世は2度にわたり議会を解散し、その後チャールズ2世の治世に議会が召集されることはなかった。こうした状況で急進派が打った手段がライハウス陰謀事件(1683年)で、チャールズ2世とジェームズ兄弟を一挙に暗殺する計画を立てた。この暗殺計画は未遂のうちに露見しホイッグの指導者層は処刑、シャフツベリ伯は1682年に別の陰謀発覚でネーデルラントに亡命し翌1683年に死去、一方のジェームズは1682年に帰国、1684年に海軍総司令官に復職した。
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