スコットランド相手に「金星」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 13:50 UTC 版)
「ラグビー日本代表」の記事における「スコットランド相手に「金星」」の解説
1989年5月28日秩父宮ラグビー場で、宿澤ジャパンとして初めての国際試合が、スコットランドと行われた。スコットランド代表メンバーのうち、中心選手9名はブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてNZに遠征中だったため、ベストの布陣とは言えず代表扱いではないチームとして「スコットランドXV(フィフティーン)」と名乗っていたが、当時日本側は「スコットランド代表」として扱った。 それまで日本は、スコットランドに3戦全敗。来日したスコットランドが国内の他のチームと行った試合を、宿澤監督は観戦・分析し、代表選手たちに指示をした。 最高気温25℃の夏日、晴天で午後2時開始のためスコットランドに不利であり、PGを7本も外すというスコットランドの不調があったとはいえ、日本の5トライに対してスコットランドを1トライに抑え、28-24のスコアで勝利。IRB8か国の1つを破る金星となった。試合後「宿澤コール」が会場に鳴り響き、宿澤監督は胴上げをされた。 スポーツ新聞各紙はこの金星を一面で大々的に報道したほか、Sports Graphic Number「第8回Number MVP賞」を日本代表チームが受賞した。 この試合の主将に、神戸製鋼の主将でもあった平尾誠二が就き、シナリ・ラトゥ、吉田義人、堀越正巳、青木忍といった現役大学生をレギュラーに抜擢した。そのため、たった1戦の指揮しか行なっていないにもかかわらず、「宿澤は日本のラグビーを変えた」とまで言われるようになった。 この試合は、日本ではキャップ授与対象のテストマッチ扱いだが、スコットランド側は上記のように自国は代表チームではないとして、テストマッチとは認めていない。 テストマッチのあり方を見直す その後は、日本側のみがテストマッチとする対戦のあり方を、宿澤は抜本的に見直した。 原則的に、各国代表チーム以外のチームとの対戦(NZU戦、オックスフォード大学戦、ケンブリッジ大学戦など)については、テストマッチとはみなさないことに決まった。この方針転換は、当時のラグビー日本代表としては画期的だったが、世界的なルールに沿ったものであり、現在まで踏襲されている。 ワールドカップ1991で初勝利 対スコットランド勝利後のカナダ遠征では2戦2敗、翌1990年3月のフィジー戦も完敗した。ワールドカップのアジア・太平洋予選は1990年に行われ、西サモアにこそ苦杯を舐めたが、トンガ、韓国を破って2大会連続でワールドカップ出場を決めた。だが、その後は西サモア戦の敗退を含めてテストマッチで5連敗。 1989年のスコットランド戦の金星があったとはいえ、その後は強豪国相手ではなく、日本代表とレベルの近いチームとの対戦を宿澤は志向したため、強豪IRB8か国との対戦は、ラグビーワールドカップ1991までの2年間は行われなかった。 しかしワールドカップを迎えるにあたって、宿澤の情報収集力や明快な選手起用方針などから、宿澤ジャパンに対する評価は、不安よりも期待感のほうが高まっていた。 ワールドカップ1991でプール2に入った日本は、初戦で優勝候補の一角に挙げられたスコットランドと対戦した。スコットランドのホームであるマレーフィールド・スタジアムが会場。2年前の再来を期待していた日本のラグビーファンも多かった。しかし、前半こそ9-17で折り返したものの、後半はスコットランドの一方的展開となり、9-47で完敗した。 続くアイルランド戦は、アイルランドのホームグラウンドであるランズダウン・ロードで行われた。初戦から中3日で行われたこの試合では、吉田義人の70m独走トライなどが見られ拮抗した内容になったものの、16-32で敗北。この時点で予選敗退が決まった。 最終戦のジンバブエ戦は北アイルランドのベルファストで行われ、日本は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せて、52-8でワールドカップ初勝利を収めた。
※この「スコットランド相手に「金星」」の解説は、「ラグビー日本代表」の解説の一部です。
「スコットランド相手に「金星」」を含む「ラグビー日本代表」の記事については、「ラグビー日本代表」の概要を参照ください。
- スコットランド相手に「金星」のページへのリンク