スコットランド王位継承への介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「スコットランド王位継承への介入」の解説
ウェールズ征服後、エドワード1世は北方スコットランド併合計画を本格化させた。 ちょうど1286年にスコットランド王アレグザンダー3世が崩御したため、アレグザンダー3世の3歳の孫娘でノルウェーにいるマーガレットがスコットランド女王に即位したが、エドワードはこれをスコットランド乗っ取りの千載一遇のチャンスと見た。さっそくマーガレットと自分の息子エドワードの結婚の赦免を教皇に願い出るとともにスコットランド長老会議と交渉を行い、1289年にはスコットランドとの間にバーガム条約(英語版)を締結して婚約を成立させた。同条約には「スコットランドの権利、法律、自由ならび慣習は完全に保持され、スコットランド王国は自由にして別個の王国として存続する」と定められていたが、エドワードの狙いは当初より併合であり、条約を守る気などさらさら無かった。しかし1290年、ノルウェーからスコットランドへ向かう道中にマーガレットが崩御したため、この目論みは失敗に終わった。 マーガレットの崩御でスコットランド王室の傍流たちが次々と王位継承権を主張するようになり、とりわけウィリアム1世の弟ハンティンドン伯(英語版)デイヴィッドの女系子孫にあたる3人、ベイリャル卿ジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女マーガレットの孫)、アナンデール卿ロバート・ド・ブルース(英語版)(デイヴィッドの次女イザベラの子)、ヘイスティングズ卿ジョン・ヘイスティングス(英語版)(デイヴィッドの三女エイダの孫)の三人が有力候補となった。3人の対立は激しくなる一方で、内乱に発展することを恐れたセント・アンドルーズ司教(英語版)ウィリアム・フレイザー(英語版)は、エドワード1世に書簡を送って「陛下が国境まで出御されて決定し給わんことを」と懇願した。このときのフレイザーの対応は今日までスコットランド人から売国行為として批判されるが、仲介できるほど力を持った者はエドワード1世しかなく、内乱を避けるためにはやむを得ない判断だったと弁護もされている。 エドワード1世は、ただちにこれを了承して介入を開始した。そして1291年5月にスコットランドの聖職者・貴族を北イングランド・ノラム城(英語版)に招集して彼らに「朕が正当な宗主ではないという証拠を示しうるか?」と問うて、スコットランドを自らの宗主権下に置こうとした。スコットランドの聖職者・貴族たちは「国王がいないため自分たちには答える権限がない」と述べて回答を避けたが、エドワード1世はこれを王位継承候補全員から臣従を得れば自分に臣従することを認めた回答と判断し、ベイリャルとブルースをはじめとする王位継承候補7人と個別に会見して、全員から自分への臣従を取り付けた。 そして1291年8月にスコットランド王を決定する「大訴訟 (Great Cause)」を主催した。法定の査定官は104人いたが、ベイリャルとブルースがそれぞれ40人を指名し、残る24人はエドワード1世が指名したため、エドワード1世の決定次第であった。審議はベイリャルが長女の系統の立場を生かして有利に進め、エドワード1世もベイリャルを温厚で操り人形にしやすしと見ていたのでイングランド査定官たちはこぞって彼を支持し、結果1292年11月にベイリャルを王とする旨の裁定が下された。こうしてイングランド宗主権下のスコットランド王が誕生することになった。
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