王位継承者問題とイングランドによる統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 02:43 UTC 版)
「スコットランド独立戦争」の記事における「王位継承者問題とイングランドによる統治」の解説
「en:Competitors for the Crown of Scotland」を参照 王位継承者の最有力候補は実力者であるジョン・ベイリャル(アレグザンダー3世の摂政の息子)とロバート・ドゥ・ブルース (en) であったが、互いに譲らず混乱が生じ始めた。これを見て、ホラント伯フロリス5世(英語版)やノルウェー王エイリーク2世、イングランド貴族ら外国人も含めて、王家に少しでも血縁のある者が次々と名乗り出て合計13人となり、収拾がつかなくなった。 内戦の勃発を恐れたスコットランド諸侯たちは、エドワード1世に再び調停を求めた。これを好機と見たエドワード1世は、1291年5月にイングランド軍を率いて両国の国境近くのノーラムで王位請求者や領主たちを集め、調停への服従と空位の間のスコットランド統治権を要求した。スコットランド貴族たちは当初ためらったが、多くの者はイングランドにも所領を持っていた関係上イングランド王に逆らい難く、強大なイングランド軍の無言の圧力もあって、これを了承した。 ジョン・ベイリャルとロバート・ドゥ・ブルースは、共にマルカム4世およびウィリアム獅子王の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの女系の子孫であったが、長系優先であればジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女の孫)、血統の近さではロバート・ドゥ・ブルース(デイヴィッドの次女の子)が優位であった。最初の審議で有力な4人(前述の2人とフロリス5世、およびイングランドの男爵ジョン・ヘイスティングス (en) )に絞られたが、審議はしばしば順延された。王国の分割相続も検討されたが、翌1292年11月17日、ベリクで最終的な裁定が行われ、正式にジョン・ベイリャルが国王に指名された。この間、エドワード1世はスコットランドの支配者として振る舞い、ジョン・ベイリャルは王位についても傀儡に近く、イングランドに対して屈辱的な臣従を誓わされた。 ジョン・ベイリャルは、しばらくはエドワード1世の様々な要求に従っていたが、臣下の支持を失っていった。スコットランド貴族たちは12人の評議会を作り、1294年にフランスへの兵員動員を拒否し、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ。これに対し、エドワード1世はイングランド北部カーライルに軍を集め、同盟の破棄を迫った。 1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランドへの臣従の拒否を宣言し、イングランド北部へ侵攻して、自身の岳父であるサリー伯ジョン・ド・ワーレンらが率いるイングランド軍とダンバーで対戦した(英語版)。ダンバーではスコットランド軍が多数であったが、統制が取れておらず、イングランド軍が陣形を組み換えたのを逃走する準備と見て無謀な攻撃を行い、大敗した。ジョン・ベイリャルは一旦は逃れたものの、10月にストロカスロで降伏した。 スコットランドはエドワード1世によって「スクーンの石」を奪われ(スコットランド人は王冠を捨て、以後のスコットランドに王位は許さない、もしくはイングランド王がスコットランド王を兼ねるというイングランドの意思を表す)、ジョン・ベイリャルは廃位させられ、長男エドワードとともにロンドンへ送られ、3年間幽閉された。スコットランドには王位が許されず、以後スコットランドの統治は、ジョン・ド・ワーレンを総督として、イングランド人によって統治されることになった。
※この「王位継承者問題とイングランドによる統治」の解説は、「スコットランド独立戦争」の解説の一部です。
「王位継承者問題とイングランドによる統治」を含む「スコットランド独立戦争」の記事については、「スコットランド独立戦争」の概要を参照ください。
- 王位継承者問題とイングランドによる統治のページへのリンク