王位継承計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:25 UTC 版)
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 前672年、エサルハドンは存命中の息子のうち年長のシャマシュ・シュム・ウキン(左、大英博物館収蔵の石製記念碑)をバビロンの継承者とし、年少のアッシュルバニパル(右、アッシュルバニパルの獅子狩り(英語版)より)をアッシリアの後継者とした。 自分自身が非常な困難の末にアッシリア王位を獲得していたため、エサルハドンは自分の死後の権力の移行がスムーズかつ平和裏に行われるよう複数の段階を踏んだ。エサルハドンとウルカザバルナ(Urkazabarna)と呼ばれる東方のメディアの王国の属王ラマタイア(Ramataia)との間で前672年に結ばれた条約(誓約)から、エサルハドンの全ての息子が当時まだ未成年であり、問題があったことが明らかとなっている。この条約ではまた、エサルハドンが自分の死後に彼の後継者たちの即位に複数の派閥が反対し、おじ、従兄弟、さらには「元王族の子孫」と「アッシリアの首長、または総督の1人」を推戴するかもしれないと憂慮していたことが示されている。 このことは、少なくともエサルハドンの兄弟の幾人かがこの時点でまだ生存しており、彼ら、あるいはその子供たちが自分の子供たちの脅威として登場する可能性があったことを示している。「元王族の子孫」への言及はエサルハドンの祖父サルゴン2世が簒奪によって王位を獲得し、それ以前の王たちと関係を持っていなかったかもしれないという事実を暗示するものである可能性もある。かつての王家の子孫が未だ生き残っていて、アッシリア王位への権利を要求する立場にあったかもしれない。 自らの死に伴う内戦を回避するため、エサルハドンは前674年に長男シン・ナディン・アプリ(英語版)を王太子として指名した。しかし彼はその2年後に死亡し、再び王位継承は危機に直面した。この時、エサルハドンは2人の王太子を任命した。存命中の王子のうち年長の息子シャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの継承者に選び、年少ながらアッシュルバニパルをアッシリアの王太子に任命した。この二人の王子はニネヴェを共に訪れ、外国の代表者、アッシリアの貴族たち、そして兵士たちの祝賀を受けた。過去数十年にわたってアッシリア王は同時にバビロンの王を兼任しており、息子の1人をアッシリア王の後継者に、別の1人をバビロンの王の後継者にするというのは新機軸であった。 アッシリア王位は明らかにエサルハドンの第一の称号であった。アッシリアの王太子に弟を、バビロンの王太子に兄を任命するという選択は、彼らの母親の出自によって説明できるかもしれない。アッシュルバニパルの母は恐らくアッシリア人であり、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロンの女性の息子であった(これは不確かである。アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟であった可能性もある)。このため、もしシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリアの王位に登れば問題のある結果を引き起こしたであろう。アッシュルバニパルは2番目に年長の息子であり、兄に次ぐ王位継承の有力な候補であった。エサルハドンは恐らく、バビロニア人に連なる者を王として戴くことにバビロニア人が満足するだろうと推測し、それ故にシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンとアッシリア帝国の南部の後継者とした。エサルハドンが作成した条約は、この二人の息子関係がどのようなものであると彼が想定していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュルバニパルが帝国の第一の継承者であったことは明らかであり、シャマシュ・シュム・ウキンは彼に忠誠の誓約を立てることになっていたが、別の部位ではアッシュルバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に干渉しないことも明記されており、これはより対等と言える関係を示している。二人の王太子はすぐにアッシリアの政治に深く関与するようになり、病気がちな父親の肩に背負われた負担の一部を引き受けた。 エサルハドンの母親ナキアは、エサルハドンが自分の即位当初に発生した流血を避けるべくとった処置とは別の対策して、潜在的な敵と王位主張者に対してアッシュルバニパルがアッシリア王位に就くことへの支持を誓約させた。アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの王位継承を確実なものとするため、エサルハドン自身もまた少なくとも6人の東方の独立諸国の君主およびアッシリアの中核地帯の外側にいた複数の総督と前672年に継承条約を締結した。恐らく、このような諸条約の作成にいたった主たる動機は、エサルハドンの兄弟、特にアルダ・ムリッシが未だ生きており、アッシリア王位を要求していたことであろう。いくつかの碑文によって、アルダ・ムリッシが前673年の時点でもまだ生きていたことが示されている。
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