王位継承問題と弱体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:45 UTC 版)
「サーサーン朝」の記事における「王位継承問題と弱体化」の解説
シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教・仏教・キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。 バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。
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