海軍総司令官
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1943年1月30日、レーダー元帥の後任として海軍総司令官に就任し、海軍元帥にも昇進する。後任の潜水艦隊司令長官にはフォン・フリーデブルク少将が就任した。 デーニッツはレーダーの辞任の理由となったヒトラーの大型艦の廃艦命令について、それを強硬に主張するヒトラーを1943年2月4日に「装備を含めて」Uボート関連の「ドック工員や水上艦艇」を陸軍に振り向けることを中止させ、翌日6日にテオドール・クランケ中将が「成功を約束する機会」で「大型艦を戦場に派遣する」との暫定的なヒトラーの許可を得る。2月26日ヒトラーに大型艦の廃艦命令を一部撤回させ、後に大型艦は生き残った。 大西洋では、英軍が逆探知装置を開発し、戦線に投入していた。デーニッツはUボート部隊に対して、現在地や燃料残量などの些細なことを、最大で1日に7回も報告を求めたが、英軍は短波方向探知機により無線を発信したUボートの位置を把握し、追跡・攻撃を行った。Uボートは長距離哨戒機や駆逐艦からの被害が増え、さらに米護衛空母が参加すると、Uボートは攻撃する前に空から制圧され戦果は激減する反面Uボートの損害は大幅に増加したが、デーニッツは遅くまで英軍の逆探知能力に気づかず、Uボートの被害を拡大させた。撃墜した爆撃機から英軍の正確な電子兵器のシステムが判明すると、1943年5月に無線電波誘導による「狼群作戦」を終わらせたが、ノルマンディー上陸作戦以降はフランスの基地も失い、Uボート戦は壊滅的な苦境に陥った。 デーニッツも個人的に、1943年5月19日にUボート乗組員だった次男ペーターが戦死し、自らの作戦で自らの息子を失う悲劇にあう。また、1944年5月13日にはSボート乗組員だった長男クラウスが戦死する個人的な悲劇が続いた。 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に、海軍創設時の協約である非政治的なドイツ海軍は全体的に無関係であった。デーニッツ自身も、仮にヒトラーを除いても、戦争の根本原因の国と国の衝突する利害関係までがなくなるわけではない上に、もし連合軍へ無条件降伏すればイギリスの秘密命令「エクリプス」(ドイツ分割計画)が実行されるので、全力を傾け「ヨーロッパ要塞」を守り抜くことが賢明だと考えており、ヒトラーを除けば全て良くなるとは考えていなかった。 デーニッツは戦況について新型電動潜水艦(エレクトロ・ボート)の就役やヴァルター・ボートの開発に期待を持ち、それらが大量に戦線に登場すれば戦局は好転すると考えていた。デーニッツは1944年当時でもソ連と西欧諸国の同盟は不自然であり、英国の戦争理由はヒトラーの言うように「力の均衡のため」であると信じていた。「ソ連が中部ヨーロッパに進出すれば力の均衡はソ連側に大きくふれてしまうため、英国は平和交渉に応じる。そのためには、交渉のテーブルに着ける能力をもたねばならず、防戦を続けるべきである。」と主張していた。 デーニッツもアルデンヌ敗北後は、仮に新型電動Uボートやヴァルター機関のボートが就役したとしても、ドイツの敗北は避けられないと感じていた。しかし、戦争継続の態度は変わらなかった。その理由は、1944年の厳冬期に無条件降伏すれば国際法によりドイツ兵は現地で拘束され、そのためにソ連領内の数百万の生命が東部戦線やその奥地で失われる。それを防ぐために、春までは戦闘を継続するべきだと考えた。そして、春以降ドイツ本国のいくつかの都市が敵の手に落ちた後も、もし無条件降伏を行えば東部残留のドイツ人がソ連軍占領下のドイツ人同様に残虐行為にさらされるとして、さらに継戦を正しいとした。 デーニッツは、ノルマンディーの敗北後から終戦までの戦争末期二つの軍事行動を行っている。一つは、時代遅れとなった旧型Uボートの出撃を命じつづけた。その結果、戦果がほとんど見込めないにもかかわらず旧型Uボートの乗員の損失は続いた。デーニッツは、新型Uボート就役まで出撃を控えさせる処置をあえてとらない理由を「大西洋の敵航空機が本土や戦線へ振り向けられることを防止するために」と、「わずかでも戦略物資をアメリカからヨーロッパの戦場へ入れない」ためと説明している。もう一つは、1945年の1月から終戦まで難民や兵士をソ連の残虐行為から救うために、ソ連陸軍の包囲が開いている海上からデンマークや本国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン)へ輸送を開始したことである。
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