潜水艦隊司令長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:45 UTC 版)
「カール・デーニッツ」の記事における「潜水艦隊司令長官」の解説
デーニッツはドイツ海軍の潜水艦隊司令長官として、1936年1月1日以降のUボート作戦を指揮し、1943年1月30日以降は海軍総司令部(OKM)トップの海軍総司令官として、海軍全体の指揮をとる。しかし、大西洋の戦いが戦機を決すると考えたチャーチルとデーニッツに対してドイツ海軍総司令部は大陸的思考に定着し、デーニッツが総指揮官として指揮権を得た時にはすでに戦いの趨勢は決していた。 開戦の日、デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。デーニッツは当初より300隻のUボートが最低でも必要(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)と表明していたが、通商破壊に必要な数はおろか訓練用にも事欠く状態で、開戦時に「なんたることだ!また英国と戦争をせねばならんとは!」と現状を嘆いた。 英国との開戦後も状況は変わらなかった。月産29隻の供給では損害の補填しかできず、その上、エーリヒ・レーダー元帥の指揮下で水上艦艇の補助としてデーニッツは作戦を制約された。そのため、対英戦での通商破壊作戦に使用できるUボートの数はごく僅かに限られていた。しかも、開戦直後(1939年9月6日)よりUボートの磁気式信管の魚雷は早期爆発を頻発し、ノルウェー攻略ではデーニッツは数週間前からUボートに通商破壊戦を中止させ、全兵力の42隻をノルウェー沿岸の英艦隊の予想進撃路に配置しなければならなかった。しかし、同地の鉱物から発せられる強い地磁気で魚雷は誤作動を繰り返し、ほとんど成果をあげなかった。 この魚雷の不調は深刻で、U47の報告により海軍はより威力の劣る接触式の信管による起爆に1939年10月20日に変更させたが、今度は魚雷の深度調節機の欠陥が明らかになり、Uボートは現実的には駆逐艦への魚雷攻撃が不可能になった。この魚雷の欠陥と少なすぎる潜水艦の数から、緒戦の英軍の欧州からの水上艦艇の補助的な艦隊戦に関して、多くの戦果をみすみす逃す結果となった。魚雷の問題の技術的解決は1940年の夏までかかったが、開戦初期の戦果によりデーニッツは中将に昇進した。 詳細は「大西洋の戦い (第二次世界大戦)」を参照 ドイツは渋るヒトラーを海軍が説得した結果、1940年8月17日にイギリスの封鎖宣言に対してようやく対封鎖宣言を行った。これにより無警告で商船を撃沈することが違法ではなくなったために、デーニッツの作戦への制約は一つ少なくなった。単独行動の商船が狙われたため、英軍は護送船団方式をとるようになった。これに対しデーニッツは敵の輸送船団を発見した1隻の潜水艦が近在の味方潜水艦を誘導して一時にこれを襲撃するという「群狼作戦」を考案した。 Uボートの建造もフランス占領後にはやや増加し、ビスケー湾から直接大西洋に出ることができた。しかし、ヒトラーからの要望でUボートの地中海派遣や北極海派遣が続き大西洋で作戦するUボートの数は限られた。1941年末のアメリカ参戦後、西海岸沿岸で活動できたのは6隻の大型の9型ボートだけであった。しかし、1940年以降はフランス占領の効果とUボート増産の効果がでて、1943年春に連合軍の護衛戦術が変更されるまで戦果は増え続けた。
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