政府成立
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4月30日早朝、デーニッツは総統官房から無線で「ヒムラーがスウェーデンを経由して連合軍と交渉する反逆罪を犯したため、迅速かつ冷厳にSS全国指導者に対処すべし」との指令を受けた。しかし、全ての権限はヒムラーが掌握しており、地上での戦闘力のない海軍総司令官が指令を実行するのは容易ではなかった。また、敵側のラジオ放送を根拠にした点からも懐疑的であり、午後にリューベックでヒムラーと会見した。ヒムラーは敵との接触を完全に否定し、デーニッツも実行の難しい「反逆者の処罰」よりも、ヒムラーが後継者から除外された事実だけを伝えるとともに、「自らは海軍を降伏させるが、海軍軍人として最後の戦闘で死ぬ」と海軍軍人としての決意を固めた。 同日午後にボルマンから特別の暗号解読認証を受けたドイツ海軍通信部隊経由で「総統はゲーリング前国家元帥に換えてデーニッツ元帥を後継者と定められた。今後は現状にて可能な全ての処置を取られたし」(第1号電報)という電文が届けられた。これにより、デーニッツはヒトラーが既に死亡したか、または死を目前にしていると考えた。デーニッツは湖畔を歩き、副官ノイラートに「国家形態をどうするべきか」とつぶやいた。これは後に発表した「三本の柱をもつ憲法(静の元首、行動の政府主席、国民の意思を代表する議会)」の原案について口にした最初であった。デーニッツは「ヒトラーの後継者となることを義務とみなした。国民と軍隊に最良と信ずる道を歩むしかない。」「(軍人としての決意を翻すことが)仮にそれが自分のためには不名誉なものであっても」と副官ノイラートは後に回想している 。 5月1日午前0時、国内最大の実力者のヒムラーが重武装のSS隊員と共にデーニッツの元を訪れた。デーニッツが第1号電報を示すと、ヒムラーはデーニッツの地位を承認する代わりとして首相の地位を要求した。デーニッツは「私の作る極力非政治的な政府に政治的に傑出した者の席はないし、相手側から貴殿は交渉相手になりえない」と降伏交渉に重荷になることを説明して断った。ヒムラーは理解しなかったが、引き下がった。 同日午前、デーニッツの元にボルマン署名の「遺書発効す。自分は速やかにそちらに赴く予定。それまでは公表を控えられるべし」との、ヒトラーの死去という重大な事実については曖昧にしたままの第2号電報が入電した。これはボルマンがヒトラーの死という事実を隠蔽することによって自身の権力を延長しようと図ったものであった。ただ、この電報ではヒトラーの死について明確に述べられていなかったため、デーニッツはその真意を量りかね、しばらくは行動を起こすことができなかった。 同日午後、ゲッベルスとボルマンの共同署名になる明確な内容の第3号電報がデーニッツのところに到着した。ここではヒトラーの死の事実が初めて明らかにされるとともに、ヒトラーの遺言の概要が伝えられていた。デーニッツはここでヒトラーが死に、自身の大統領就任が発効したことを知った。この第3号電報ではヒトラーの遺言で首相にゲッベルス、ナチ党担当相(ナチ党の党首)にボルマン、外相にオランダ総督のザイス=インクヴァルトが指名されていることも通知された。 デーニッツは第3号電報を受けて、ドイツ国民にヒトラーの死と自らの後継者就任を公表することにした。午後9時半のハンブルク放送の特別報道でヒトラーの死が発表され、続いて午後10時15分にはデーニッツ自身がラジオ演説を行い、ヒトラーがベルリンで戦死したこと、自分にヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託されたことを報告、自分は「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける意思」を改めて表明し、さらに「ドイツ国防軍を指揮し、守り戦い続ける。(中略)私の任務は押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うことであり…来るべき苦難の時代に力の及ぶ限り耐えうる生活条件を作り出す努力をする…私を信頼してもらいたい、諸君の道すなわち私の道である…」と国民の協力を求めた。ただ、デーニッツの署名の肩書きは海軍元帥(大提督)とだけ記された。なお、ヒトラーは実際には自殺であって戦死ではないし、デーニッツはヒトラーの死の様子の詳細を知らされてはいなかったけれども、あえて「戦死」としたのは、総統ヒトラーが軍人らしい死を遂げたと脚色することによってドイツ軍の忠誠心をつなぎとめる狙いがあったと考えられている。 ヒトラーの遺書は3通作られて総統地下壕から外部(デーニッツ宛、陸軍総司令官に任命された中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー陸軍元帥宛、ミュンヘンのナチ党文書館宛)に送られたものの、いずれも輸送の途上で隠匿されてしまい、デーニッツはその全文を知ることができなかった。デーニッツは第3号電報で知らされたヒトラーの遺言による閣僚任命(ただし、デーニッツは全閣僚のリストは知らなかった)に驚いたが、出来るだけ沢山の人間を救いつつ戦争をできるだけ早く終結させるための交渉に極めて重荷になる人事を「ヒトラーの死後の命令」として無視することを決意し、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相を閣僚首班(首相代行)に指名し、組閣を依頼した。なお、デーニッツの身辺警護隊としてフォン・ビューロとアリ・クレーマーを指揮官として、水兵による陸戦隊が編成されたほか、潜水艦隊司令長官のフォン・フリーデブルク大将を2月1日付に遡及して海軍総司令官に任じた。 一方、5月1日にゲッベルスはベルリンの総統地下壕において自殺した。デーニッツの政府に合流することによって自らの権力を維持することを狙っていたボルマンは総統地下壕から脱出したものの、逃亡に失敗してベルリン市内で自殺した。 5月3日、新政府は拠点をフレンスブルク郊外のミュルヴィク(ドイツ語版)にあったミュルヴィク海軍兵学校へ移した。この際、軍需相アルベルト・シュペーアとヒムラーはともにバート・ブラムシュテットへ一時疎開している。 5月5日、「フレンスブルク政府」は初閣議を開いた。また、同日にヒムラーも150人あまりの側近を連れて合流し、ゲシュタポの解体に手をつけたが、この際にSS隊員等の身分偽証工作を行ったとされる。 5月6日、デーニッツはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最高責任者としての大管区指導者ヒンリヒ・ローゼを解任、17時には入閣を望んでいたヒムラーと、東部占領地域相のアルフレート・ローゼンベルクを全ての職務から解任したほか、ヒトラー内閣の司法相オットー・ティーラック、生死不明であったゲッベルスを解任した。これらの解任は、フレンスブルク政府が連合国によって容認されやすくするためとも、生え抜きの党幹部の在任が新政府の障害となった事などが理由であるとされる。
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