カール政府成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 17:21 UTC 版)
9月26日、エーベルト大統領は消極的抵抗の中止と全ドイツへの非常事態宣言を布告する予定であった。しかし9月20日にバイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングは閣議を行い、バイエルン州内に非常事態を宣言した上に、カールを州総督(州総監、Generalstaatskommissar)(ドイツ語版)に任命して独裁的権限を与えた。 カールはバイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー(Hans von Seißer)大佐とともに三頭政治体勢をとった。カールの露骨な反ベルリン姿勢は中央政府に危機感を与え、バイエルン州政府とベルリン中央政府の関係は緊迫化した。 ナチスは独立を行わないという条件でカールの独裁を支持するとして、事態を静観した。9月26日にはナチス幹部ショイブナー=リヒターがループレヒトの官房長と会談を行い、ループレヒトがどのように「バイエルンを処理されようと自由」であると告げた。 9月27日、ナチス機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」がシュトレーゼマンと軍総司令官ゼークトを批判する記事を掲載した。ベルリン政府国防相オットー・ゲスラーは、26日の緊急令に基づいて「フェルキッシャー・ベオバハター」の発刊中止をロッソウ少将に命令した。しかしロッソウがカールに相談したところ、ナチスを敵に回すことを恐れたため拒否した。ロッソウは発行禁止措置を行える権限を持っていたが、国防軍はカールとの闘いを避けるという口頭命令を受け取っているとして、発行禁止を行わなかった。この口頭命令はゼークトから出されていたものであり、ゼークトとゲスラーは対立していた。当時の政治家ヴィルヘルム・ベネッケ(ドイツ語版)は、ゼークト派のロッソウを追い込むことで、ゼークトの失脚を狙ったものと推定している。 しかしカールはナチスへの牽制も行い、9月27日に行われる予定の集会を禁止した。また直後にドイツ闘争連盟から国旗団が離脱した。レームの一派は分裂し帝国戦闘旗団(ドイツ語版)を結成してドイツ闘争連盟に参加した。 また、ルール地域でフランス軍の支援を受けた分離独立派が蜂起し、ドイツ全体の情勢も緊迫化しつつあった。ゲスラーはバイエルン州の蜂起に備え、史ドイツ社会民主党とドイツ共産党の連立政府が成立していたテューリンゲン州やザクセン州に派兵し、北ドイツとバイエルンの連絡を絶つ計画を策定しはじめた。 10月1日、カールは記者会見を行い、「フェルキッシャー・ベオバハター」の批判記事と反ベルリン姿勢には賛同できないものの、ドイツ闘争連盟の協力を求め、発禁措置を行わないと発表した。これで中央政府の命令を拒否した事が明らかとなり、ドイツ各地では「一揆(Putsch)」の発生のうわさが飛び交った。
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