開戦初期(1937~1938年)
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「中華民国空軍」の記事における「開戦初期(1937~1938年)」の解説
日中戦争(支那事変/抗日戦争)勃発後の1937年8月14日、高志航率いる第4大隊の新ホークが杭州への渡洋爆撃を行った九六式陸攻を迎撃し、うち3機を撃墜(八一四空戦(中国語版))。この出来事は戦後「空軍節」として長らく記憶されることとなる。戦闘機隊はその後も度々陸攻に痛手を負わせ、特に日本海軍内部でも巻き起こっていた戦闘機無用論を大きく改めさせることとなった。また、1938年5月19日には徐煥昇(中国語版)率いる第14大隊のB-10が九州に飛来し、鹿地亘の作成した反戦ビラを散布した。しかし、これらの航空機の供給源となっていた米国は日本との対外関係悪化を危惧。同じくイタリアも3月までに軍事顧問団を撤収させ、中国は閉塞状態となっていた。そんな中、中ソ不可侵条約によりSBやI-15、I-16などのソ連機が大量供給され、南京・武漢空中戦などで戦果を挙げた。 また、スペイン内戦経験者も多く構成されたソ連空軍志願隊が派遣され、中国空軍戦闘機隊との共同作戦の他、台湾・松山飛行場への爆撃に成功している。この他の外国人義勇部隊として、スペイン内戦経験者のヴィンセント・シュミットを隊長とする国際第14大隊が編成され(使用機はヴァルティV-11、ノースロップ YA-13(英語版))、1937年5月に顧問となった元米陸軍パイロットのクレア・リー・シェンノートの指揮下に置かれたほか、フランスからの義勇兵で編成された第41中隊(使用機はD.510)があるが、いずれも特にめぼしい戦果を挙げられず消滅、機体は中国空軍に接収された。 この他、米国製のカーチスホーク75M、英国製のグロスター グラディエーターを一部の部隊が使用している。
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開戦初期
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「レオポルド3世 (ベルギー王)」の記事における「開戦初期」の解説
レオポルド3世は反ユダヤ主義者だった。1940年1月、政府に「1939年9月以降に不法入国したユダヤ人の数は30,000と見積もられるが、彼らへの訴追が充分になされていない」と主張した。第二次世界大戦におけるドイツ占領下では、何千ものユダヤ人、フランドル民族主義者などがフランスへ追放された。 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻、9月3日に英仏両国が対独宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。翌1940年4月9日に、ドイツがノルウェーやデンマークに侵攻(ヴェーザー演習作戦)すると、ベルギーへの侵攻も確実視されるようになった。英仏両国は、ベルギーでドイツを食い止めるために、両国軍の常駐を依頼した。 しかし、レオポルド3世は中立への行き過ぎた考えから「ベルギーを守る/戦場にしない」ことにこだわり、国境にのみ常駐を認め、ベルギー領内で両国の兵士を見かけたら射殺すると表明した。これに対し、フランスのポール・レノー首相や、英国のウィンストン・チャーチル首相は、ともに国王の態度に呆れ、批判している。また、国王は、これを契機にベルギー国内で諜報活動の可能性のあるベルギー人及び外国人(独伊のみならず英仏も含む)を検挙させ、これにはドイツから迫害を逃れて亡命したユダヤ人も含まれた。
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