海軍管理の下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:24 UTC 版)
「ブルースター・エアロノーティカル」の記事における「海軍管理の下で」の解説
アメリカ海軍当局はブルースター社の生産体制を健全化させるべく、経営面での支援と引き換えに1940年11月にはワークを退任させ、海軍の飛行/技術将校であり、当時は海軍を退任してライト社に勤務していたジョージ・F・チャップリン(George F Chapline)を社長に任命させた。太平洋戦争の勃発によりチャップリンが海軍に復職する必要が生じると、1942年にはワークは実質的に彼を追い出す形で社長の座に復帰したが、1,000万ドルに上る財政上の不正行為を追及され、会社経営が困難となった。この事態に際し、フランク・ノックス海軍長官はフランクリン・ルーズベルト大統領と協議し、1942年4月18日、海軍当局は大統領令に基づいてブルースター社の生産工場とその生産設備を接収した。ワークはこれに対し合衆国政府に対する訴訟も辞さないとの態度を示して抵抗したが、前述の不正財政問題を理由として排除された。 海軍の管理下となったブルースター社では海軍建設隊(Navy Construction Corps)所属の海軍大尉であるウェスターヴェルト(G.C.Westervelt)が最高責任者に任命され、同年5月には新たな取締役会が組織され、航空エンジニアのチャールズ・ヴァン・ドゥーゼン(Charles Van Dusen)を社長として、海軍の監督官の指導下ながら再び民間企業として再開され、チャンスヴォート F4U コルセアの社外生産契約が結ばれた。ブルースターで生産されるF4Uには「F3A」の制式番号が付けられたが、このF3Aも生産遅延が発生し、1943年4月26日にようやく1号機が飛行して1943年の末までに136機を生産できただけに留まり、更に本来のチャンスボート社製F4Uに比べて品質面での問題が多く、高負荷旋回中に主翼が折れて空中分解する事故が発生し、速度と運動性に制限の掛けられた訓練用としてのみ運用された。 この他1941年にはアメリカ陸軍から攻撃機としてXA-32を発注され開発を行ったが、ブルースター社には開発部門に割く余力がほとんど残っておらず、試作1号機の完成までに2年を要し、試作機の性能も要求を満たすに程遠いものであったため、発注はキャンセルされた。ブルースターの手がけた陸上機はこのXA-32のみであり、またこの機体はブルースター社の最後の開発機となった。 上述のようなブルースター製航空機の製造の遅延とF3Aの製造不良による事故の発生は、ブルースター社と海軍当局を始めとした関係者の外にも知られることとなり、新聞のみならずゴシップ誌に“ブルースターの恐るべき労働現場の実態!”といった形でセンセーショナルに報じられるようになり、アメリカが第2次世界大戦に参戦して戦時体制を構築している最中であったことから社会問題化し、ついには議会で審問会が開かれる事態となった。審問会では 経営陣が会社の資金を私物化している 労務管理に問題があり、非効率的 工員の労働時間(とそれに対して支払われる賃金)に生産結果が見合っていない 従業員の中に意図的な遅延活動(サボタージュ[要曖昧さ回避])を行っている者がいる 生産のための資材と設備が共に不足している といった問題点が、関係者の証言とそこから導き出された結論としてまとめられた。
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