海軍練炭製造所の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
大嶺炭田で採掘された無煙炭を練炭に加工する練炭製造所は、まず敷設予定の大嶺炭田からの鉄道と山陽鉄道本線との連絡地である厚狭の海岸に設ける案が浮上した。しかし厚狭は大嶺炭田から至近であるが、海が遠浅であるため製品となった練炭を輸送する海軍艦船の着岸が困難であるとの欠点があった。同様の理由で埴生、長府も候補から脱落し、結局大嶺炭田からの距離、鉄道輸送を予定している無煙炭輸送に都合の良い場所、製品の海軍艦船輸送が可能な良港という条件を勘案し、小野田、小月、下松そして徳山が候補地となった。 徳山については徳山出身の児玉源太郎が誘致に尽力したとの話が伝わっている。海軍練炭所の建設候補地の一つとなっていることを知った徳山では、官民を挙げての猛運動を開始した。当時、これといった産業が無く寂れていた徳山は、突如降ってわいた地域振興のチャンス獲得に必死となった。良港を持ち、鉄道輸送に不安はなく、気候、風俗人情が温和で流行病の恐れもない衛生的な地で、しかも建設費用も安価であると徳山の利点を猛アピールするとともに、練炭製造所用地を無償で海軍に献納するとの破格の条件を持ち出した。他の候補地も誘致運動を展開したが、海軍の実地調査の結果、小月は海が遠浅であり、下松は駅から練炭製造所の建設予定地までの距離が遠いという問題があり、徳山が最有力候補となっていった。 しかし徳山にも欠点があった。徳山出身の児玉源太郎も指摘した水の問題である。徳山は水が乏しい地であり、練炭製造に大量の水が必要となると製造所の運営は厳しくなる。練炭製造所の用水確保は農業用水との兼ね合いもあって調整に手間取ったが、1904年(明治37年)6月には徳山に決定した。 1904年(明治37年)8月、徳山で海軍練炭所建設が開始され、9月25日、26日には徳山港に練炭の原料となる粉炭化したイギリス炭が陸揚げされた。1905年(明治38年)3月、フランス製の練炭製造機が届き、4月下旬から練炭製造が開始された。練炭製造当初は粉炭化したイギリス炭が原料であったが、大嶺炭田から厚狭までの鉄道の開業後に無煙炭輸送が開始されると、大嶺炭田で産出された無煙炭を原料とした練炭製造が主となった。
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