海軍航空の発足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 16:40 UTC 版)
1909年ごろ、大英帝国海軍では水上機に魚雷搭載する試みがはじまり、第一次大戦の1915年には水上機による雷撃実戦で戦果をあげた。またこのころ、イギリス海軍は航空母艦への着艦にも成功した。大日本帝国海軍では第一次大戦中以降、フランス製ファルマン航空機、アメリカ製カーチス航空機や英国ホワイトヘッド社製魚雷で雷撃を研究、試行錯誤する時代が続いた。 日本海軍における海軍航空の発足は1912年(明治45年)6月26日であり、山路一善大佐(当時)を委員長とする海軍航空術研究委員会が設置された。当時の山内四郎 中佐、梅北兼彦 大尉、金子養三 大尉、河野三吉 大尉、山田忠治 大尉、小濱方彦 機関大尉、山下誠一 機関大尉、中島知久平機関大尉たちが任命され、湘南のさびれた漁村、追濱に海軍飛行場が設置された。当時は水上機ばかりだったが、将来は陸上機の時代がきっと来るからと、陸上飛行場を設けるのに必要な土地が確保された。その4年後、1916年(大正5年)海軍航空隊令という官制ができ、独立航空隊設置の予算案が議会を通過した。4月1日に横須賀に初めて海軍航空隊が誕生し、同時に艦政本部で行っていた航空に関する事項を海軍省の事務局で行うことになった。
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