野党党首時代、1955年 - 1963年
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「ヒュー・ゲイツケル」の記事における「野党党首時代、1955年 - 1963年」の解説
のちに彼は、党会計選挙でベヴァンを下した。1955年12月にクレメント・アトリーが党首任期を満了した後、ゲイツケルはベヴァンと老いたハーバート・モリソンを党首選で破った。 ゲイツケルの党首当選は労働党の低落期の1つに当たり、その原因は部分的には、英国が保守党の下で経験していた戦後の繁栄に帰せられる。彼の党首時代は、アナイリン・ベヴァン主導下の労働党左派「ベヴァン派 (Bevanite)」と右派「ゲイツケル派 (Gaitskellite)」との間の派閥抗争によっても特徴付けられた。 1956年のスエズ危機は、ゲイツケルの党首時代のうち、特に重要な局面の1つである。このときゲイツケルは、首相アンソニー・イーデンが始めた干渉を強く非難した。 労働党は1959年の総選挙に勝利すると広く予想されていたが、そうはならなかった。その間ゲイツケルは、年金額引き上げ案の信憑性に関する国民の疑念によって、また「保守党は生活を向上させた。労働党に台無しにさせてはならない」との標語の下、ハロルド・マクミランが実施した非常に効果的な保守党のキャンペーンによって弱体化していた。 総選挙での敗北後、論争の泥仕合が再開した。ゲイツケルは敗北の責任は左派にあると非難し、大規模な工業国有化を目指すとする労働党綱領第4項の改訂を試みたが失敗した。同時に彼は、労働党を核兵器の一方的廃棄論者の立場に置こうとする試みに抵抗した。1960年の採決で敗北すると、彼は支持者を鼓舞して言った。「我らの愛する党を救うため、闘って、闘って、闘い抜こう」。決定は翌年撤回されたが、この一件は対立の種を残し、左派の多くは党首交代を要求し続けた。彼は1960年及び1961年の党首選で挑戦を受けた。 党内抗争の結果、ゲイツケル派の立場を守るため、1960年代初期に「民主社会主義運動 (Campaign for Democratic Socialism, CDS)」が創設された。CDSの若手メンバーの多くは、1981年の社会民主党 (Social Democratic Party, SDP) の創立メンバーであった。ゲイツケルは、欧州経済共同体における英国の会員資格に対する彼の反対によって、一部の支持者を遠ざけた。1962年10月の党大会での演説の中で、ゲイツケルは連邦ヨーロッパへの英国の参加が「欧州における独立国家としての英国の終焉」を意味すると主張した。「私は、主張を繰り返すことについて謝罪しない。それは、1000年の歴史の終焉を意味する」。
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