首相在任中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 11:38 UTC 版)
「ジャン=クロード・ユンケル」の記事における「首相在任中」の解説
首相としての1期目はルクセンブルクの世界的な地位の向上のために両国関係を強化して経済基盤を整備することに傾注し、度々外国を公式訪問した。1996年12月にダブリンを訪問した際に、ユンケルは自らによるヨーロッパ連合の経済通貨統合の政策をめぐって、フランスのシラク大統領とドイツのコール首相の対立を仲介した。メディアはまとまりそうになかったこの2人の合意を成し遂げたユンケルを「ダブリンのヒーロー」と囃し立てた。 1997年にルクセンブルクはユンケル政権が発足して初めてとなる欧州連合議長国となった。ユンケルはヨーロッパの社会的な統合の動きを支持し、「ルクセンブルク・プロセス」と呼ばれる、統合ヨーロッパの失業対策を取りまとめた。また経済通貨統合構想を扱う財務相による非公式グループ "Euro 11" を進めた。このような活動に対して、1998年にユンケルは"ヴィジョン・フォー・ヨーロッパ・アワード"を受賞した。 1999年の総選挙の結果、連立の相手が社会労働党から民主党に替わったものの、ユンケルは引き続き首相を務めることとなった。2004年の総選挙で社会労働党が第2党の地位を取り戻したことで、ユンケルはふたたび社会労働党と連立を組んだ。首相4選を果たした直後にユンケルは欧州理事会の会合において、パレスチナ自治政府の指導者ヤーセル・アラファートの健康状態について誤解し、アラファートの死亡を間違って発言してしまった。 2005年にユンケルは2度目となる持ち回り制の欧州理事会議長となる。この議長の任期満了後にルクセンブルクでは欧州憲法条約の批准の是非を問う国民投票が実施されたが、それにあたってユンケルは自らの政治生命をこの国民投票に賭け、反対が多数を占めた場合には首相辞任を公言した。投票率が88パーセントとなったこの国民投票の開票の結果、賛成が56.5パーセントにのぼった。ユンケルのヨーロッパ統合に対する功績から、2006年にはカール大帝賞を受賞した。 2009年にユンケルはホロコーストを否認する聖ピオ十世会の司教リチャード・ウィリアムソンに対する破門が撤回されたことに対して非難を表明した。
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