ロンドン塔に投獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:10 UTC 版)
「トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)」の記事における「ロンドン塔に投獄」の解説
1569年9月23日にノーフォーク公がノーフォークの居城ケニングホール(英語版)へ移ったことで、女王は反乱準備と疑い、防衛向きのウィンザー城へ移った。 しかしノーフォーク公に反乱の意思はなく、彼はウェストモーランド伯に使者を送って反乱を思いとどまるよう説得にあたっていた。もともと結婚計画に関心がなかったカトリック北部諸侯はこれを無視し、11月にも「北部諸侯の乱(英語版)」を起こしたが、急造の烏合の衆だったので政府軍がやってくる前に解散してしまい、蜂起は失敗に終わった。一方ノーフォーク公の方は9月30日にウィンザー城へ向かい、女王の慈悲を乞おうとしたが、逮捕されてロンドンの屋敷で謹慎処分となった。12月には北部諸侯と自分が無関係である旨の誓約書を書いたが、結局1570年1月にロンドン塔に投獄された。 エリザベスはノーフォーク公を処刑すると鼻息を荒くしたが、セシルからメアリーとの結婚を計画しただけで処刑にはできないと説得された。 1570年6月、今後二度とメアリーに近づかないという誓約書を書き、8月に至ってロンドン塔から釈放され、ロンドンの屋敷で謹慎生活に入った。しかしこの後もノーフォーク公はメアリーとの接触を続けた。
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