中央党党首
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 05:23 UTC 版)
「ルートヴィヒ・カース」の記事における「中央党党首」の解説
1928年12月には彼の意思に反して中央党の党首に推挙されたが、これは党内対立の調停のため、聖職者である彼が適任と見られたことによる。翌1929年にはフライブルクのカトリック大会で「偉大な指導力に恵まれた政治家」の出現を求める演説を行っている。同年には中央党議員のハインリヒ・ブリューニングが首相となり、彼の大統領緊急命令に頼った議会無視の政策を全面的に支持した。しかし1931年以後はブリューニングとの関係が悪化した。1932年5月のブリューニング内閣崩壊後は、「緊急な多数派共同体」の結成を訴えたが、このナチ党をも組み込んだ大連立は成立しなかった。カースはその後もナチスとの連携を取ろうと試みたが、ナチ党が圧倒的な権力を握った後にはその立場も困難なものとなった。 円満な全権委任法の可決を求めるアドルフ・ヒトラー首相とナチ党にとって、中央党が賛成に回ることが必要条件であった。3月22日にはヒトラーとカースの間で会見がもたれた。カースは執行段階での大統領関与の保証、監視委員会の設置、委任法からの除外項目の画定という三つの条件を提示した。これに対してヒトラーは大統領と自分が対立することはあり得ず、監視委員会は内閣の内に設けると回答し、さらに中央党の支持基盤である教会との関係や教育政策は対象とならないとした上で、州の権限に対する侵害は考えていないと回答した。カースはこの意見を持ち帰り、翌3月23日の午後1時から中央党は法案への対処を決める会議を行った。この席でカースは、反対した場合に「党に対して不愉快な結果」が降りかかるおそれがあるとし、賛成しなくてもナチ党は法によらない手段でその権限を獲得するであろうと述べた。他の議員もおおむね同じ考えであり、中央党は賛成に回ることを決議した。
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