中央党を中心とした政権とは? わかりやすく解説

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中央党を中心とした政権(1920年-1927年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)

ドイツ社会民主党」の記事における「中央党を中心とした政権(1920年-1927年)」の解説

ミュラー内閣崩壊後社民党黙認のもと、コンスタンティン・フェーレンバッハ首相とする中央党民主党人民党の三党連立少数派政権移行した。これ以降左右両派と連立可能な中央党中心とした連立政権時代が始まる。 1921年5月にフェーレンバッハ内閣連合国との賠償総額確定交渉において1320億マルクという巨額賠償金拒否するならばルール地方占領するという最後通牒受けた。同内閣国民国会多数派支持受けられる原則的立場固執したため、非現実的な方針をとって追い詰められ退陣余儀なくされた。この際重工業界からの反対人民党政権から下野したため、後続中央党左派ヨーゼフ・ヴィルト内閣ヴァイマル連合での組閣試み社民党政権参加することになった。もっともヴァイマル連合主役はすでに中央党移っていた。 1921年9月ゲルリッツ党大会30年ぶりにエルフルト綱領改正行いゲルリッツ綱領ドイツ語版)を制定したエルフルト綱領との違いとしては、第一次世界大戦ヴェルサイユ条約を新事実として受け入れドイツ革命成果左右両派の攻撃から擁護すること、特に自由主義擁護社会主義擁護同列置いていること、肉体的労働者だけでなく、精神的労働者公務員使用人芸術家文筆家教師など)も党に結合させようとしていること、エルフルト綱領見られた「小経営の必然的没落」という言葉事実反するため削除されたこと、エルフルト綱領社会主義社会資本主義社会対す自然的必然的な発展段階位置付けていたのに対しゲルリッツ綱領では社会革新もたらすための民衆意思必要性強調していることなどがあげられる。また「自由な人民国家(freier Volksstaat)」というラッサール主義思わせる表現取り入れられ、「革命(Revolution)」という表現も「克服する(Überwinden)」、「改新(Erneuerung)」、「改造(Unform)」といった表現変えられた。つまりエルフルト綱領よりも修正主義的、自由主義的な綱領になっていた。 1920年7月ソビエト連邦コミンテルン加入問題めぐって独立社民党割れコミンテルン加入賛成する独立社民党内の極左派は共産党移ったため、独立社民党極左傾向大幅に減少し社民党独立社民党主張がほぼ一致するようになり、1922年9月24日ニュルンベルク開いた合同大会で独立社民党社民党の下に合流したこの際党名を「ドイツ合同社会民主党(Vereinigte Sozialdemokratische Partei Deutschlands, 略称VSPD)」に改名した1924年6月11日から14日開かれたベルリン大会で「ドイツ社会民主党」の党名戻った)。独立社民党員が戻ってきたことにより社民党は左にウィング伸ばし連立与党として安定性を欠く存在になった1922年11月エーベルト大統領人民党グスタフ・シュトレーゼマンの下に帝政色を薄めてきたと判断して連立加えようとした際にも社民党反対し、そのためにヴィルト内閣瓦解している。 次のヴィルヘルム・クーノ内閣では社民党与党からはずされ、代わって人民党入閣したため政権右派色が強まったが、1923年初頭にはフランスとベルギーによるルール地方占領ドイツヴェルサイユ条約不履行があったと理由をつけて占領した)があり、国内の反仏挙国一致ムード高まった。クーノ内閣ルール地方住民に「消極的抵抗」を呼びかけたが、ルール地方失ったことで石炭英国はじめ外国に頼らざるを得ず、それによって外貨大きく消費したうえ、ルール地方支援によって膨大な支出迫られた。それは財政的裏付けのない通貨無制限発行対応するしかなく、ハイパー・インフレ急速に進行した。しかしクーノ内閣交渉はあくまで撤退後という立場を崩さなかったので打開のめどが立たなかった。8月には挙国一致ムード萎れ社民党がクーノ内閣不信任通告する及んでクーノ内閣辞職することになったその後継として人民党シュトレーゼマン内閣発足したが、危機的状態から大連立必要性痛感した社民党参加社民党独立社民党からの帰還組)のルドルフ・ヒルファーディング大蔵大臣となる。ヒルファーディングは新マルク発行主張したが、断交踏み切れずに10月6日更迭された。しかしこの考え通貨全権委員ヒャルマル・シャハトレンテンマルクによって実現されインフレ奇跡的に収束した1923年10月10日社民党左派エーリヒ・ツァイグナー首相務めザクセン州政府共産党員閣僚として参加し共産革命準備のため赤色軍組織創設されるとともにソ連から将校百人ほど送り込まれた。この革命準備テューリンゲン州でも行われた。これに対してシュトレーゼマン中央政府は軍を出動させてザクセンテューリンゲン占領し共産党参加政府解体した。社民党シュトレーゼマン内閣一員だし、社民党本部はツァイクナーが共産党員入閣させたことには反対の立場だった。しかし「レーテ共和国」とは違い、一応合法的な社民党政府がいきなり軍の討伐受けて滅ぼされるというのは同じ党に属する者として忍びがたいことであった社民党右派グスタフ・フォン・カール率いバイエルン州政府ザクセン州上の反逆的行為行っているとしてバイエルン州政府にも同じ処置を取ることをシュトレーゼマン求めたが、拒否されたために連立から離脱した以降社民党1928年6月まで野党となった社民党離脱議会基盤失ったシュトレーゼマン内閣11月末には倒れブルジョワ少数内閣ヴィルヘルム・マルクス内閣に代わった。 なおヒトラー内閣授権法反対した事で知られる社民党だが、1923年10月13日シュトレーゼマン内閣独裁認める「授権法」や同年12月8日マルクス独裁認める「授権法」には賛成して可決させている。1924年2月22日には社民党はじめとするヴァイマル連合は、鉄兜団国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAPナチ党)の突撃隊共産党赤色戦線戦士同盟などヴァイマル共和政打倒目指す準軍事組織対抗するため、共和政を守る準軍事組織として国旗団創設した経営側の攻勢に対して革命以来既得権失っていた社民党労働者層から失望され、1924年5月4日国会選挙では現有172議席100議席に減らす大敗喫した一方国家人民党96議席躍進し選挙後合流した農村リスト(Landliste)の10議席合わせる社民党議席超えた。だがマルクス内閣シュトレーゼマン外交転換唱える国家人民党との組閣交渉失敗したので再度解散総選挙踏み切った12月7日選挙があり、社民党131議席掌握して第一党地位奪い返したが、議会勢力図大きな変動はなかった。そのため選挙後組閣交渉難航社民党についてはブルジョワ政党の間では政権参加拒否する声もあれば、政権参加させることで政府責任回避しようという声もあった。しかし結局1925年1月中旬国家人民党政権参加した右派から中道ブルジョワ政党政権ハンス・ルター内閣発足した1925年2月28日エーベルト大統領死去3月29日行われた第一次大統領選挙では社民党からはプロイセン州首相オットー・ブラウン出馬したが、第一次選挙過半数取った候補がなかったので当選者無しとなり、4月26日第二次選挙が行われることになった第二次選挙では社民党ブラウン取り下げて「ヴァイマル連合」の仲間として中央党マルクス押した第一次選挙ではブラウンの方がマルクスより票を取っていたが、ブラウンプロイセン以外では馴染み薄かったのでマルクスの方が当選可能性が高いという判断からだった。しかし結局保守右翼擁立した帝政復古主義者パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥僅差敗れた。この大統領選挙には共産党議長エルンスト・テールマン当選見込みもないのに泡沫候補として出馬していた。ヒンデンブルクマルクス僅差であったことからテールマンのせいでリベラル左翼票が割れてマルクス敗れた面があり、マルクス陣営は「共産党ヒンデンブルク助けた」と非難した。またカトリック立場から中央党候補支持する思われていたバイエルン人民党社民党嫌ってヒンデンブルク支持回ったことも誤算だった。 1925年9月ハイデルベルク党大会ハイデルベルク綱領ドイツ語版)が制定された。党内左派影響力強めていたため、この綱領ゲルリッツ綱領比べる左傾化しており、エルフルト綱領回帰した感があった。ゲルリッツ綱領盛り込まれた「自由な人民国家」という表現削除され逆にゲルリッツ綱領削除されていた「小経営の必然的没落」の件について「大経営の強化伴って小経営の社会的意義減少した」と説くことで修正主義見地否定した。また資本主義独占形態として金融資本初め指摘資本主義現段階金融資本時代入ったとし、階級闘争とともに国際競争激化し戦争脅威存在することを解く。そして人類戦争破滅から防衛する意思掲げ民主的共和国維持完成させることこそが労働者階級解放に必要であると強調している。 1925年10月には国家人民党ロカルノ条約反対して政権離脱したため、ルター内閣弱体化して12月総辞職したが、1926年1月には国家人民党欠いたまま再組閣した。一方この頃国会で王侯財産没収問題となっていた。これは1925年に旧王侯戦後没収され財産返還要求して保守的な司法がそれを認めたことに労働者層強く反発していた問題である。当時統一戦線戦術」をとってい共産党社民党王侯財産無償没収求め国民請願共闘提案した社民党支持層の間にも王侯要求不当なものと見えたので、社民党執行部それぞれ独自に活動するという条件共産党提案同意せざるを得なかった。1926年3月行われた国民請願1200上の賛成得て国会提出されたものの拒否され国民投票付されることになったが、賛成票1560票にとどまり過半数達しなかったので失敗終わった。この件は社民党ジレンマを示すものとなった1926年5月公布され帝政時代黒白赤の国旗の掲揚商船在外公館命じた大統領国旗令について社民党は「復古主義」として強く反発。この責任取ってルター内閣辞職し首相のみが交代した第三次マルクス内閣発足した1926年12月には社民党シャイデマン国会で独ソ秘密軍事協定一部暴露し軍備制限違反としてマルクス内閣追及した。これによりマルクス内閣総辞職追い込まれた。しかしこの一件社民党再軍備の邪魔になるという認識大統領側近クルト・フォン・シュライヒャー持たせるきっかけとなった1927年2月には国家人民党政権参加する形で第四次マルクス内閣発足したが、学校法を巡って内部分裂し、1928年3月末に国会解散となった

※この「中央党を中心とした政権(1920年-1927年)」の解説は、「ドイツ社会民主党」の解説の一部です。
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