ミュラー内閣(1928年-1930年)
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「ドイツ社会民主党」の記事における「ミュラー内閣(1928年-1930年)」の解説
1928年5月の国会選挙は社民党が大幅に躍進した。当時好景気になっていたため、ヴァイマル共和政とそれを作った社民党に支持が集まっていたのであった。これを背景に6月12日に社民党党首ヘルマン・ミュラーを首相とする内閣が発足した。社民・中央・民主の「ヴァイマル連合」に加えて人民党とバイエルン人民党も連立に参加した。 ただしこの五党は政策協定を結んでいたわけではなく、他党から参加した閣僚は「個人の資格」あるいは「連絡員」として入閣していた。また社民党内にも「ブルジョワ政党」との連携に反発する声があり、ミュラー首相には常に党内から「党の利益より内閣の利益を優先するようなブルジョワ政策を取るな」という圧力がかかった。そのためミュラーとしてはあくまで「個人内閣」として組閣するしかなかった。外相シュトレーゼマン、国防相グレーナーが留任したほか、蔵相ヒルファーディング、内相カール・ゼーフェリンクなどが入閣し、人材に優れた内閣となった。 ミュラー内閣で最初に問題となったのは前内閣からの持ち越し案件である「装甲巡洋艦A」(艦砲や航行距離は戦艦レベルだったが、ヴェルサイユ条約の建前からこの名前にしていた。ポケット戦艦とも呼ばれた)の建造時期の問題だった。直ちに建造を開始しなければならないという国防相グレーナーの説明を閣僚たちは社民党員も含めて全員が承諾したが、社民党は先の国会総選挙で「装甲巡洋艦より児童給食を!」をスローガンにしたために党内からは異論が続出した。社民党は「装甲巡洋艦A」の建造中止とその予算を児童給食へ回す動議を提出し、ミュラー首相はじめ閣僚党員にも党議拘束を課した。そのためミュラーは首相として「装甲巡洋艦A」建造計画を閣議決定しつつ、議員としてそれに反対する動議に賛成票を投じることになった。この反対動議は社民党と共産党以外の賛成を得られず否決されたものの、自党の首相にこのような茶番劇を演じさせたことは社民党の威信を著しく低下させた。 社民党内では党内左派が指導部に連立政策の破棄を迫るようになり、1929年5月のマグデブルク党大会では党所属議員クルト・ローゼンフェルト(ドイツ語版)が「党の利益を守るため、プロレタリアの利益を守るため、共和国政府と手を切ろう」と煽った。連立離脱の決議はされなかったものの、党指導部もかつてほど連立政策に意欲を持たなくなっていった。 党外からの攻撃も激しくなっていた。1929年2月に新しい賠償方法ヤング案が決議されると国家人民党やナチ党など保守・右派勢力による反政府運動が激化した。1929年5月の「血のメーデー事件」で共産党も社民党政権への嫌悪感を強め「社会ファシズム論」に基づく社民党攻撃を強化した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインでは中小農民層による反税闘争・反国家運動が高まり、テロも含めたかつてないほど激しい抗議活動が展開されるようになった。 四面楚歌となったミュラー内閣に1929年10月24日のニューヨーク・ウォール街の暴落に端を発する世界恐慌が襲いかかった。アメリカからの流入資本に頼っていたドイツ経済は、アメリカ外資が途絶えたことで大打撃をこうむったうえ、失業者増大で失業保険の赤字補填額が大幅に増え、ドイツ財政が危機的状況に陥った。政府内では失業保険の掛け金を増額すべきか、増税すべきかをめぐって、労使を代表する社民党と人民党が激しく対立。社民党と労働総同盟が掛け金増額を断固拒否する中、ミュラー内閣は調整不可能となり、1930年3月27日をもって総辞職した。 この間にヒンデンブルク大統領は側近クルト・フォン・シュライヒャー将軍の進言の影響で「反議会主義、反社会主義」政府へ転換させる意向を持つようになっており、ミュラー辞職後には議会に基づかずにヒンデンブルクが独断で首相を選び、大統領緊急令をもって政治を行う「大統領内閣」へ移行した。そのためミュラー内閣の終焉を以ってヴァイマル共和政の議会制民主主義は機能不全に陥ったと評価されている。
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