ラッサール主義とは? わかりやすく解説

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ラッサール主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:34 UTC 版)

第一インターナショナル」の記事における「ラッサール主義」の解説

フェルディナント・ラッサールは、プロイセン初期社会主義運動の指導者である。 ラッサールは、1825年プロイセン東部ブレスラウ裕福なユダヤ人息子として生まれベルリン大学進学しヘーゲル哲学研究した交流のあった伯爵夫人離婚問題からドイツ封建的制度への批判立場持ちはじめ、1848年革命参加していた。ラッサール哲学者ヘラクレイトス思想研究して成功収め哲学革命運動一時マルクスエンゲルスとも親交していた。しかし、イタリア統一運動指導者ジュゼッペ・ガリバルディ影響受けて政治世界参入した後は、マルクスとは異な立場打ち出し対立していく。 両者労働者保護に関する志は共有していたが、方法論違いがあった。マルクスは、労賃に関してラッサールとは異なる見解示していた。労賃資本家恣意決定されているのだから、価格上げなくても労賃上げて生活水準向上させることは可能であると見ていたのであるこうした賃金闘争のために労働組合欠かすことのできない組織位置付けてその役割積極的に評価していた。また、マルクスイギリスアメリカ例外として、「前衛政党」による暴力革命によって古い政府から国家権力奪取しプロレタリアート独裁」によって資本主義打破する道を探っていた。これに対してラッサール協同組合相互扶助重視し賃金闘争によって人件費上がるコストかかって物価上がり結果的に生活水準向上しないという盲目的な賃金の鉄則」を支持していたため、労働組合労働争議否認していた。かれは国家支援得た協同組合連合資本主義に取って代わる考えており、革命ではなく成人男子選挙権」を実現して議会進出を図るべきだと考えていた。1863年には最初労働者政党全ドイツ労働者協会設立しビスマルク積極的に協力しながらプロイセン議会議席獲得目指していく。1864年決闘ラッサール世を去った後も「全ドイツ労働者協会」の求心力強かったラッサール派は国家擁護立場だったのでIWAには加盟しなかったが、ドイツチェコオーストリア、そしてドイツ系移民であったアメリカ支持者がおり、マルクス主義主要なライヴァルとなった。 「フェルディナント・ラッサール」および「ドイツ社会民主党」も参照

※この「ラッサール主義」の解説は、「第一インターナショナル」の解説の一部です。
「ラッサール主義」を含む「第一インターナショナル」の記事については、「第一インターナショナル」の概要を参照ください。

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