ラッサール主義
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「第一インターナショナル」の記事における「ラッサール主義」の解説
フェルディナント・ラッサールは、プロイセンの初期社会主義運動の指導者である。 ラッサールは、1825年にプロイセン東部ブレスラウに裕福なユダヤ人の息子として生まれベルリン大学へ進学し、ヘーゲル哲学を研究した。交流のあった伯爵夫人の離婚問題からドイツの封建的制度への批判的立場を持ちはじめ、1848年革命に参加していた。ラッサールは哲学者ヘラクレイトスの思想を研究して成功を収め、哲学や革命運動で一時マルクスやエンゲルスとも親交していた。しかし、イタリア統一運動の指導者ジュゼッペ・ガリバルディの影響を受けて政治の世界に参入した後は、マルクスとは異なる立場を打ち出し対立していく。 両者は労働者保護に関する志は共有していたが、方法論に違いがあった。マルクスは、労賃に関してラッサールとは異なる見解を示していた。労賃は資本家の恣意で決定されているのだから、価格を上げなくても労賃を上げて生活水準を向上させることは可能であると見ていたのである。こうした賃金闘争のために労働組合は欠かすことのできない組織と位置付けて、その役割を積極的に評価していた。また、マルクスはイギリスやアメリカを例外として、「前衛政党」による暴力革命によって古い政府から国家権力を奪取し「プロレタリアート独裁」によって資本主義を打破する道を探っていた。これに対して、ラッサールは協同組合の相互扶助を重視し、賃金闘争によって人件費が上がるとコストがかかって物価が上がり結果的に生活水準は向上しないという盲目的な「賃金の鉄則」を支持していたため、労働組合や労働争議を否認していた。かれは国家の支援を得た協同組合の連合が資本主義に取って代わると考えており、革命ではなく「成人男子選挙権」を実現して議会進出を図るべきだと考えていた。1863年には最初の労働者政党全ドイツ労働者協会を設立し、ビスマルクに積極的に協力しながらプロイセン議会の議席獲得を目指していく。1864年に決闘でラッサールが世を去った後も「全ドイツ労働者協会」の求心力は強かった。ラッサール派は国家擁護の立場だったのでIWAには加盟しなかったが、ドイツ、チェコ、オーストリア、そしてドイツ系の移民先であったアメリカに支持者がおり、マルクス主義の主要なライヴァルとなった。 「フェルディナント・ラッサール」および「ドイツ社会民主党」も参照
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